無題

ようやく冬らしい寒さを迎えつつあった休日、親しい友人たちと酒を酌みつつよもやまの話をしながら過ごすうちに女優談義となり、一人が大谷直子のいつも狂気を孕んだまなざしについて語るので、ツィゴイネルワイゼンを見ることになった。旧時代のターンテーブル上に回る漆黒のアナログレコードと黄金のように輝くアーム、そこに脇からひょいと伸びてくる手という、あの冒頭の不気味で輝かしいカットに見とれるうちに、大谷直子の姿を見るという当初の予定を大幅に逸れて、人々は結局おしまいまで本編を見てしまうのだった。大谷直子と大楠道代の肌の白さと美しい装いが際立つようにどの場面でもたっぷり注がれた光と、画面を外から注視している死者たちの息遣いと時おりの哄笑をじゃましない程度に必要最低限の、だが鮮烈な効果音の反復に色どられて、物語は奇妙な三角関係の横滑りによって進行し(原田芳雄+大谷直子1+藤田敏八→藤田敏八+大谷直子2+原田芳雄→原田芳雄+大楠道代+藤田敏八…といった組合せの合間に盲目の門付け芸人のやはり男2人女1人の三角関係のエピソードが挟まる)、やがて何人かの人々が死んでいき、生者と死者の交流と交代によって幕となる。人々は大谷直子の狂気を孕んだまなざしを堪能しただけでなく、私たちの生の中に織り込まれている死と、その死を認識するために必要な愛と妄想とについて、あざとく、でもあっけらかんと描いた作品のすばらしさを再確認した。

最近私は似たような話ばかり繰り返しているが、意図してやっているのではなくて、映画祭での上映作品とそれらに関連する映画と本、そして偶然見たり読んだりしたことについて書いているうちにこうなってしまったのである。We Can’t Go Home Again はアトラクションのモンタージュという映画的な理念をモンタージュ技法を使わずに再現する一例だが、数週間前にバザンを論じてほとんど想像でその話を書いていたときに、すぐその実例に出会う運命にあるとはまったく思いもよらなかった。また映画祭に出かける前日に、ツイッター経由でたまたま知って即座に注文したウェルズの2枚のDVDが届き、たまらずその両方を見た結果、オーソン・ウェルズとニコラス・レイの間に懸かる橋という妄想に捉えられた挙句、ウェルズ「オセロ」の複数バージョンとWe Can’t Go Home Again  の複数バージョンについて思いをめぐらしたり、監督の自画像というテーマからウェルズの Mr.Arkadin へ、パゾリーニ「リコッタ」のウェルズへ、ゴダール「軽蔑」とヴェンダース「事の次第」へと連想が進み、再び「水上の稲妻」のレイに戻ってきたりするありさまだ。もちろん取りとめはないのだが、考える価値のある取りとめなさだといまのところ私は判断している。

これも偶然映画祭のプログラムに含まれていた川島雄三「昨日と明日の間」を取り上げ、この作品の風変わりなスクリーン・プロセスについても書いた。そのエントリで私は川島雄三が虚構を徹底しているという見方と、ラストシーンで淡路千景はスクリーンの外に出ており、それは「幕末太陽傳」の実現しなかったラスト、フランキー堺が撮影所を飛び出して駆け続けるというシーンの先取りになっているという見方の2つを提示した。昨夜ツィゴイネルワイゼンをともに見た友人は、このエントリを読んでくれただけでなく、ここでの「虚構」の意味が不明確だと指摘してもくれた。なぜなら淡路千景がスクリーンの外に出ることが、撮影所を飛び出して現実の街並みを駆けるフランキー堺の先取りなら、虚構の徹底というよりも虚構からの脱出にあたると考えられるからである。私の書き方が不明瞭であることは彼の指摘する通りで、たいへんありがたい意見だ。しかし私が書こうとしたことはこうである。映画にとって虚構こそ唯一の現実であるから、俳優が映画の外に出るということは虚構の次元を上げることに他ならず、したがってそれは虚構の徹底である。先のエントリにはこの結論が抜けているので趣旨が伝わらなかったことを反省し、かの友人の指摘には大いに感謝する。

しかし私がこのエピソードを新しいエントリにしたいと思った理由は、私の書き方の失敗に対する訂正の必要のみではない。今述べた川島作品にちなむ私の結論はWe Can’t Go Home Again の定式そのままであることに思い至り、かなり気味が悪くなったことの方がより大きな理由である。映画や愛といった妄想を媒介にする時、生と死は交代するという、ツィゴイネルワイゼンの命題を見ながら、酔った私の頭はそういうことを考えていた。

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