ウェヌス・ウェルティコルディア
お前に渡そうと林檎の実を手にしながら
胸のうちでは渡さずにおくと決めたかのよう
思いに耽りつつ、その目はお前の魂のうちに
見える物の跡をたどっている。
たぶんこう言うのだ、「見よ、かの者は心安らかなり。
ああ! その唇には林檎を――その胸には
つかの間の快楽のあと、突き刺さる投げ矢を――
その足はとこしえにさまよい歩かしめよ!」
しばし彼女の眼差しは静かにはにかむ。
だが、魔力を及ぼす実を与える時には
プリュギアの若者を見た時の如く目は燃え上がる。
そうして、彼女の鳥の張り詰めた喉は悲しみを予告し
彼女の遠い海は一枚貝のように呻き
彼女の暗い木立を貫いてトロイの光が打つ。
(松村伸一訳)
このソネットおよび呼応する絵には、ウェヌス(アプロディーテー)に結びつけられる神話への言及とアトリビュートがいくつか含まれている(Verticordia は、心変わりさせる者の意で、ウェヌスの異名の一つ)。
林檎の実とプリュギアの若者、そしてトロイは、いずれもパリスの審判とその結果生じたトロイア(イーリオス)戦争にちなむ。パリスはトロイア王の息子だが、出生直後にイーデー山に捨てられ、羊飼いに育てられる。「最も美しい女神に与えられる」黄金の林檎をめぐって、ユーノー(ヘーラー)、ミネルウァ(アテーナー)、ウェヌス(アプロディーテー)三美神の間に生じた争いを裁定させるために、ユピテル(ゼウス)はこのパリスを選び、メルクリウス(ヘルメス)に命じて林檎の実を彼のもとに送る。すると彼の前に三美神が相次いで現れ、ユーノーは「もし私にその美の褒賞をくれるなら、パリスを全アジアの王にしてやります」と、ミネルウァは「もし私に美貌の栄冠を与えてくれるのなら、私の後ろ盾によってパリスは数々の戦勝記念碑で輝く勇士となりましょう」と、ウェヌスは「もしパリスが他の女神よりも上位に私を置いてくれるのなら、私とそっくりの驚くほどの美人を花嫁として献じよう」と言う。この最後のウェヌスの言葉を聞いた時、プリュギアの若者は喜んで黄金の林檎を勝利の証としてこの女神に渡す。
ウェヌスの異名ウェルティコルディア(心変わりさせる者)は、この女神が愛と性を司ること、および愛につきものの心変わりに由来するのだろう。パリスの審判においても、ウェヌスは巧みにその力を活用して、王よりも勇士よりも魅力的な賄賂、すなわちウェヌスその人にそっくりの花嫁を提示し、彼の心を他の誘惑から逸らしてみせる。かくしてこの女神は黄金の林檎を手にし、以後それは彼女の誘惑のシンボルとなる。
一方美の褒賞を逃した二美神の怒りは収まらない。パリスは約束の「驚くほどの美人」、すなわちヘレネ―を与えられるのだが、この女性はすでにスパルタ王妃であった。トロイア戦争はパリスによるヘレネ―奪取に端を発する。ユーノーとミネルウァがトロイア戦争でギリシア側につくのもこうした経緯による。
ロセッティのこのソネットが一貫して嵐を予告する不吉なトーンに彩られていることの背景には、ウェヌスの誘惑になびいた心によって引き起こされた災いの神話がある。
ところで、パリスの審判をめぐる具体的な描写は、紀元二世紀成立と伝えられるアープレーイユス(Apuleius)の『黄金の驢馬』(“Asinus Aureus”、原題 “Metamorphoses”)にある(前記の三美神の言葉も、同書岩波文庫版、国原吉之助先生訳を使わせていただいた。ただし漢字の表記を一部やさしくしている)。ルーベンスの「パリスの審判」に見られる三美神のアトリビュートと使者メルクリウスの姿は、このアープレーイユスの作品の描写におそらく基づいている。ところが、『黄金の驢馬』におけるパリスの審判の登場のしかたは、およそもとの神話の格調にふさわしいものではない。この点にいま触れると、ロセッティのソネットから大幅に逸脱することになるので、改めて別のエントリーで取り上げる。