「ウェヌス・ウェルティコルディア」からパリスの審判へと進んだ先のエントリーのねらいは、この『黄金の驢馬』の話を出すことにあったという穿った見方をあらかじめ否定しておく。本題はロセッティで、こちらはあくまで脱線である。
『黄金の驢馬』の主人公ルキウスは、梟に化けるつもりが驢馬になってしまう。この小説は驢馬になった男の一人称で語られる。パリスの審判の挿話はおしまいに近い第十巻に登場するが、それ以前にルキウスは、飼い主のテーブルから数々のご馳走を少しずつつまみ食いした結果、毛並みの色艶といい体躯の美しさといい、またとない立派な驢馬になっていた。この変化をいぶかしんだ世話係は留守を装って覗き穴から様子を窺う。何と驢馬がご馳走をがつがつ食らっているのを見て仰天し、これを飼い主に告げると、飼い主はご馳走を食らう珍しい驢馬を天下の見世物にしてしまう。ルキウスの方は、大っぴらに飲み食いできるのはよいものの、飽きられた果てに禿鷹の餌食にでもされてしまうのではないかと内心ハラハラする。そんな心配をよそに彼の評判は広まり、ある貴婦人などは代金を支払って彼を一夜借り受けるほどだ。
もちろん飼い主はたんなる「愛玩」のための借り受けだろうと思っているが、これが「たんなる」愛玩ではなく、本格的なそれなのだ。じっさいこの第十巻の白眉は獣姦の場面である。微に入り細を穿っておもしろおかしく書かれたこの場面は、ぜひラテン語の原文で読まれたい(http://latin.packhum.org/loc/1212/2/0#9)。尾籠になるので、このエントリーでは翻訳の引用を省略させていただく。
かく広まった評判の結果、あまりに酷い運命がルキウスを襲う。当時一人の女囚があった。彼女は嫉妬と金銭欲ゆえに夫・その妹・実の娘・医師を次々に殺害した死刑囚である。ただ殺すには飽き足りないこの女囚に下った判決は衆人環視のもと、獣の前に引き出されるというものであった。一般にこの判決の趣意は、獅子だの狼だのそういった獰猛な野獣の前に引き出すということに他ならない。しかし、このたびに限り女囚は驢馬ルキウスの前に引き出され、彼によって凌辱されることになったのである。ルキウスは自決を考えるものの、驢馬の足では自由がきかない。煩悶するうちに時が経ち、ついに結婚式の日がやってきた。
しつらえられた舞台に、儀式の前座としてかかる出し物が、あのパリスの審判なのである。パリスの審判の詳細は、これより前の古典にはほとんど出てこないという。よってこんなお下劣なエピソードの一環としてかの名高い神話が後生に伝えられることになったのだ。
それにしてもアープレーイユスは、よりによってなぜこんな物語の中にパリスの審判のエピソードを持ち込んだのか。当時の裁判を風刺するためである。
「さて、こういうわけですから、あの最も卑しい人間が、法廷の家畜が、いやこういったら一層ぴったりとくる、人間の着物をまとった禿鷹たちが、今の世のすべての裁判官たちが、自分の判決を賄賂と引替えに取引きしていっこう平気なのも当然のことです。そうではありませんか、世界の開闢の頃にもうさっきの神々と人間との間の訴訟を見てもわかるとおり、その審理が特別の依怙贔屓で腐敗してしまっているのですから。」(p. 427)
驢馬の哲学を傾聴するのもたまには興味深いものである。