『鏡の女たち』試論

吉田喜重『鏡の女たち』には、二枚のひび割れた鏡が登場する――ひとつは岡田茉莉子宅の、もうひとつは田中好子宅の壁面にはめ込まれている。どちらも何か硬いものを投げつけられたらしく、衝撃を受けた一点を中心に放射状にひび割れている。しかし、鏡面が剥離したわけではないため、どちらも鏡であることをやめてはおらず、この作品にはそれぞれの鏡が映し出すひび割れた人物像が繰り返し登場する。『鏡の女たち』における、打ち砕かれずに残された鏡の役割について論じたい。

岡田茉莉子が演じる六十代後半の女性は、二十四年前に失踪した一人娘の行方を追い続けてきた。娘は夫(広島で原爆症患者を救うために尽力した医師。四年前に死亡)との間の子ではなく、夫と出会う前に、広島で被爆して両親を失った岡田が身を寄せていた男との間の子である。原爆症で入院した男は、差別が娘に及ぶことを心配し、この子の出生について口外しないよう岡田に言い含めて、娘が四歳のときに亡くなった。岡田の夫はこの娘を実子として育てたが、娘の方は成長とともに父と衝突するようになり、ついに家出してしまう(岡田宅の鏡のひびは、このとき娘が癇癪を起して作ったものだ)。しばらくしてある産院から連絡があり、岡田夫妻は娘の出産を知らされるが、赤ん坊を置いて彼女は再び行方をくらまし、それ以来二十四年の歳月が流れた。以上の過去のできごとは現在の岡田の口から語られるだけで、フラッシュバックはいっさいない。ただし、この失踪した娘が実父の記憶をかすかとはいえ持っていた可能性はある(広島の場面で岡田は、四歳だった娘が実父の病床でその死を見届けたと述べている)ので、義父との衝突の理由が彼女の出生にあったと推測することは許されるだろう。したがってあの鏡のひびも、失踪を決意するほど憤っていた娘の、自分はだれなのかという訴えとみなすことができる。またこの痕跡をそのままにしておいた岡田にとっては、自分の罪責感のしるしである。

岡田は娘が残した赤ん坊を実子として育て、成長したこの子(一色紗英)は岡田が祖母であると知りながらママと呼んで慕っている。さて物語の冒頭、岡田のもとに失踪した娘と思われる女性発見の知らせが届く。この女性(田中好子)は記憶を失くしているが、手元に一色の名が記された母子手帳を所持していた。三度目の幼児誘拐(ただし発作的な行為ですぐ親元に子供を帰すため、被害届は出されず、今回も簡単な取り調べ後に釈放された)に際しての家宅捜索で手帳が発見され、それが岡田と田中を結ぶきっかけとなったのである。田中の容貌に娘の面影を認めた岡田は彼女のアパートを訪ねて話を聞く。しかし田中は何も思い出さず、母子手帳も他人の持ち物だったかもしれないと答える。

本稿の目的はあくまでひび割れた鏡の役割を論じることにあり、このように詳細なあらすじを紹介することは本意ではない。しかし以上は本題の議論に不可欠なのでご容赦願いたい。

岡田茉莉子は、はじめて訪ねた田中のアパートの鏡が、自宅のそれと同様にひび割れているのに気づく。田中は自分が癇癪を起して割ったのだと答える。その後のエピソードで彼女は、DNA鑑定という手法に頼らず、あくまで田中の記憶を掘り起こすことを通じて母子の絆を取り戻そうとする岡田の試みによって激しく動揺し、自分は何者かという長年苦しめられてきた問いに再び捉えられることになる。それゆえ彼女の鏡のひび割れも、この同じ問い(「わたしは何者か」)の産物であることはたしかである。

わたしは田中好子が岡田茉莉子の失踪した娘かどうかという点について詮索するつもりはない(作中では結局明らかにされない)。それよりずっと重要なのは、ふたりが同一人物か否かにかかわらず、ふたつの鏡のひび割れに、自分は何者かという同じ問いかけが表現されているということである。この点を確認した上で、ふたつの鏡(ひび割れているにもかかわらず依然として鏡であることをやめない鏡)が彼らをどのような状態に導くかをふりかえってみよう。

田中好子が経験するのは次のような一連のできごとだ。岡田邸に招かれ、一色とも対面し、割れた鏡とかつての(もし彼女が岡田の娘なら)自分の部屋を見た後、彼女は窓から海と小島が見える広島の病院の記憶を語る。三人は広島行きを決め、かつて岡田の夫が勤務していた病院の病室からたしかに海が見えることを確認する。さらにこの病室で岡田は、田中と一色を前にわが娘の出生の秘密を打ち明ける。田中にとってこの告白は、自分が岡田の子だとしても父親は四年前に死んだ岡田の夫ではないということを意味する(ちなみに実父を知らない一色――誕生と同時に母から捨てられたので――にとっては、実父のみならず祖父までが未知の人であることを意味する)。田中は二重の不確定状態に動揺し、その夜一色に「家族ゲームはやめましょう。今日みたいなことはもうたくさんよ」と告げる。岡田と出会ってからの田中は、岡田の期待に反して、以前にも増して自分はだれなのかという問いに苦しめられている。つまり彼女がかつてひびを入れた鏡の呪縛の力が、「家族ゲーム」によって強まるのである。

そればかりでなく、田中はこの広島行きによって、封印していたもうひとつの記憶を蘇らせる――ひとりきりで海辺で泣いている幼女とそれを冷たく見ている女のイメージだ。彼女は一色に、かつては幼女の方が自分だと感じていたが、遠くから見ている女こそ自分だとわかったと言う。つまり記憶は定かではないものの、自分はやはり子供を捨てたに違いないと、その捨てられた子であるかもしれない一色に告げるのである。

『鏡の女たち』の中心をなす映像は岡田茉莉子をめぐるそれであるため、以上のように田中好子の側からできごとを整理すると、おそらくこの作品をご覧になったかたの印象とはだいぶ異なってくるはずである。しかし、これは本稿の主題にとって不可欠な手立てだ。このような整理がなぜ必要なのかについては最後に述べる。

さて一方の岡田茉莉子は、宙吊り状態に動揺する田中好子からの、DNA鑑定によって結論を出してほしいという要望に応えようとはせず、むしろそれより先に彼女と養子縁組の手続きをしたいと言い出す。この最後の会見のときに、田中は先に一色に伝えた記憶の内容――海辺で泣く幼女とそれを冷たく見る女――を岡田にも話して聞かせる。岡田は激しく興奮して、その女はわたしだ、あなたのお父さんが亡くなった後、行き場を失ったわたしは心中を考えたと言って、田中に詫びる。しかし田中は、あなたのその優しさがわたしを追い詰めるのだと答える。彼女のこの返答を聞くまでもなく、岡田がわが子との絆を取り戻そうとして語る証言の数々が、田中を追い詰めていることは明白であろう。

岡田茉莉子が犯しているのは、彼女の娘があの鏡に残した「わたしは何者か」という問いに答えを与えようとして、田中好子が陥っている記憶喪失の状態を慮ることなく、自分にできることだけを遂行するという失敗なのである。これはたしかに悲劇的な状況であり、岡田に非があるとはけっして言えない。しかし、ただひとつ言えるのは、彼女があのひび割れた鏡の呪縛から逃れられないということ、鏡を粉砕してしまわずに二十四年もの間放置した結果、過去を蘇らせようとする不可能に取りつかれてしまったということである。しかし、一度ひび割れた鏡からいったいどのような過去が取り出せるというのだろう。岡田茉莉子はこの作品のラストで、障子に映った幼女の幻を見ながら、次のような虚構を語り始める――あの子は幼いわたしの子、いえ小さいころの夏来(一色紗英)よ。いいえ、いずれ夏来が生む子どもだわ。この台詞にはいろいろな解釈があり得る。吉田喜重監督の考えは、作中の他の箇所(やはり西日に照らされた障子の燃え上がるような赤を見ながら、岡田と一色がこれは女の血、と述べる箇所)との関連から見て、女から女への連綿と続く歴史に対する感懐を表現することにあったかもしれない。しかし、わたしの考えでは、ここで岡田茉莉子は打ち壊すことのできなかった鏡の呪縛に捕らわれたまま、誤った物語を語っている。「わたしは何者か」という娘の問いかけには、この鏡を粉砕した上で、岡田茉莉子が自分自身に答えるべきであったのに、田中好子という今となっては赤の他人に、けっして伝わることのない答えを伝えようとした上、この失敗を女から女への血の継承という一般的な命題あるいは虚構で締めくくろうとしている。これは残酷な解釈だが、本作品が『鏡の女たち』と題され、ふたつのひび割れた鏡をめぐって展開することから見てけっして恣意的ではなく、確たる根拠を作品の構成の中に求め得る。

約束した通り、田中好子の経験に戻って論述を閉じよう。なぜ彼女の経験に照準を合わせることが、ひび割れた鏡の役割という主題にとって必要なのか。それは彼女が鏡を捨てて出発したからである。彼女の鏡のひびも、「わたしは何者か」という問いの表現であることは先に指摘した。岡田茉莉子の方は結局その呪縛を逃れることができず、「女」という一般的な命題にそれを置き換えてしまうが、田中好子はこれとは異なり、鏡を後にして出て行く。つまり彼女は自分を問うことをやめて自分に帰るのである。こう言うと、自己への問いを放擲するとは何と消極的な、と言って憤慨するかたもあるだろうが、そういうかたには逆に次のように問いたい。「わたしは何者か」という問いに答えはあるのか。あるいはこうした問いに答える意味があるのか。ひび割れた鏡からの問いかけに答えようとすることよりもずっと価値ある行為は、鏡を粉砕することではないだろうか。

【追記】 映画にとって重要な、鏡を打ち砕くという主題については、ジャック・リヴェットの『アウトワン』をめぐる所感、「鏡を打ち砕く」でも触れた。あわせてお読みいただければ幸いです。

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