日本近代映画の起源

19世紀末に日本で映画が制作されていることも驚きだが、映画がもっとも豊かだった1910年代の、日本の尖んがりぶりもすごい。Wikipedia の「日本映画」に以下の記述がある。

《1917年に帰山教正が『活動写真劇の創作と撮影法』と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動「純映画劇運動」が起こる。映画芸術協会を主宰した帰山は同書で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優花柳はるみを使った『生の輝き』、日本初の女性のヌードシーンを撮影した『幻影の女』などがある。》

ところで時をほぼ同じくする1919年、もうひとつの優れた映画が日本で誕生していることはご存知だろうか。小学生も読んでいる、芥川龍之介「蜜柑」のことだ。この作品は映画化できない。それ自体が映画だからである。

《しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふ――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。》

注意すべきはこの映画がサイレントであり、モノクロであることだ。にもかかわらずこの圧倒的な描写はどうだ。音が聞え色が見える。それだけではない。今の引用の最後の一文をご覧あれ。文の前半と後半の視点が異なる。これを言葉以外の様式で表現する場合、私たちの構想力を除いては、カメラワークしかない。列車内から空を飛ぶ蜜柑へ、そして子どもたちへと移りゆくカメラワーク。映画監督にとってはチャレンジングだが、何度も言うようにもうこの作品を映画化する必要はない。

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