マティアス・ピニェイロの映画

マティアス・ピニェイロの作品にはゲームをする人たちが出てくる。二種類のゲーム――その行動から彼らが従っている規則を推測できそうに見えるゲームと、実践の方が規則に先行しているために規則を読み取れそうにないゲーム――を区別できるかもしれない。

『みんな嘘つき』では、第一のタイプは女系存続ゲーム(迎え入れた男との間に女子が誕生するとその男は死ぬという歴史を受け継いできたサルミエント家の末裔である少女=エレナが、家系存続のために男を迎え入れる準備をするゲーム)である。エレナを背後から撮る鮮烈な冒頭のショットで、すでに彼女自身がゲームの目的を宣言する。彼女のひいひいひいおじいさんであるサルミエントに何が起こったかは彼の著作の引用を通じて示される。彼女の別荘に滞在している男友だち三人のうちのだれもエレナとは釣り合わず、彼女の女友だちの協力によってJMR(エレナとの間に女子をもうけることが予定されている男)を迎える準備が進められている。こうしたことから見て、このゲームはエレナにサルミエント家の歴史にふさわしい男を迎えさせるため、不適格な男をエレナの女友だちが引き受けるという規則に従っていると推測できる。

第二のタイプはエレナを中心に四人の女の子たちが進めている女系親族ゲームの背景にあるサルミエント家の歴史を、三人の男の子たちに語り聞かせて何が起こっているのかを当てさせるゲームである。こちらは第一のゲームの中に織り込まれた小規模なもので、エレナの物語から男の子たちが何かを解読しようとしていることは確かだが、何を解読すべきなのか、どのような手順で回答すればいいのか、ゲームオーバーになったのかどうか(男の子たちは正解したのかどうか)のいずれも明らかにはされない。

『ロサリンダ』では、第一のタイプは『お気に召すまま』を演じるゲームである――シェイクスピアのテクストに従って作中の人物を演じることがゲームの規則に当たる。第二のタイプは演劇の練習のために合宿しているメンバーが興じる犠牲者当てゲームだ(暗殺者のカードを引いた者によって殺されたのはだれかを他のメンバーが当てる)。この種の余興は実在するのだろう、しかし少なくともこの作品の中では、暗殺者がどのように殺すのか、また犠牲者はだれかをゲームの参加者はどのように当てるのか、いずれの規則も不明である。

もちろんこのような区別、規則を推測できそうに見える/見えないという区別は恣意的である。サルミエント家存続ゲームにせよ、『お気に召すまま』ゲームにせよ、明示的な規則が掲げられているわけではなく、わたしたちはただ人物のふるまいと発話を観察するだけなのだから。とりあえず第二のタイプと呼んだゲームに興じる人々のさまを見ながら、何をやっているのかわからないけれどもメンバーそれぞれの表情と身のこなしに惹きつけられるという経験は、第一のタイプのゲームについてわたしたちがその規則を「解釈」したくなるときに、こちらのゲームの規則も実はよくわからないのだ、それでもたしかにこの人たちは何かのゲームに打ち興じている、と教えてくれる。ただし、わずかの間でもふとゲームの規則が露わになったかのように感じさせるところに、ピニェイロ作品の魅力がある。はじめからすべてが藪の中だとわかっているのでもなく、またある種のミステリー作品のようにある瞬間にすべての霧が晴れるわけでもない。規則がまったく不明なままのゲームと、漠然とではあっても規則を読み解けそうなゲームの間を行き来しながら、次第にこちらもピニェイロが仕掛けた映画というゲームの中に導かれる。フェルナンド・ロケットによる美しい映像(ロメール作品のアルメンドロスを髣髴させる)と、いずれも魅力溢れる俳優たちの身のこなし、スペイン語のリズムに引き込まれながら、ゲームの綾の中をさまよう――愉悦に満ちた経験だ。アテネ・フランセ文化センター、Happy Tent共催による「マティアス・ピニェイロ映画祭2015」で、12月11日。

 

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