『ビオラ』(マティアス・ピニェイロ、2012)(2)

スペイン語(Castellano)の ‟Viola” の発音は日本語の「ビオラ」に近い。一方シェイクスピア『十二夜』の同名の人物は、日本では「ヴァイオラ」と英語読みされる。この文章で両者の表記が不統一なのはこうした事情によるが、ピニェイロ作品の中ではもちろんこの区別はない。ただし、本作には二人の(見方によっては三人の)Violaが登場する。一人はセシリア(アグスティーナ・ムニョス)が演じるシェイクスピア劇中のキャラクターであり、もう一人はブエノスアイレスでパートナーの男性と二人で活動しているパフォーマンス・アーティストのビオラ(マリア・ビジャール)である(後述するように、ロミーナ・パウラ演じるルトというもう一人の女優が登場するが、彼女はセシリアの前任者だから、作中では明言されないものの、セシリアと同じ舞台で『十二夜』のViola を演じた可能性がある)。以下の記述でもヴァイオラはシェイクスピア劇中のキャラクターを、ビオラはマリア・ビジャールが演じる人物を指す。

舞台がはねた後の楽屋のシーンを締めくくるセシリアの横顔のアップに戻ろう。ここで彼女は他の二人の女優に、別れたばかりのサブリナの彼氏に自分が近づいたら、女は自分に欲望を抱く相手に対して欲望するのだから、愛してくれる男を振ったサブリナは間違っている、自分がサブリナにその非を悟らせよう、という意味の言葉を漏らす。それ以上計画の詳細は語られないので、推測できるのは、おそらくセシリアはサブリナを嫉妬させようとしている誘惑し、欲望されることへの欲望を教えようとしているという程度の内容である(注1)。

続くサブリナの自宅のシークエンスは本作の白眉だ。登場人物はサブリナとセシリア二人だけ。二人はここでも冒頭の舞台と同じ『十二夜』の対話を始めるが、到底練習をしているようには見えない。台詞は抜粋であり、しかも対話の途中で二人のやりとりは少し前の箇所に戻ってしまい、このループが延々と七、八回ほども繰り返されるのである。カメラは舞台シーンのときよりも引いて二人を撮り、女優たちが部屋の中を移動しつつ体を入れ替え、交互に前に出たり後ろに下がったりする艶めかしい姿が捉えられる。とりわけヴァイオラの台詞「ご門の前に悲しみの柳の枝で小屋を作り、お邸のなかの私の魂にむかって呼びかけます。さげすまれても変わらぬ恋を歌にたくし、ものみな寝静まる真夜中に大声で歌います。こだまする山々にむかってあなたのお名前をさけび、おしゃべりな大気まで声ふるわせて『オリヴィア』と言うようにしてやります。そうなればあなたは、この天地のあいだに身のおきどころがなくなるでしょう。私をあわれとお思いにならぬかぎり」の箇所にさしかかり、サブリナの耳もとで「オリヴィア」とささやくときのセシリアは妖艶で、あたかもサブリナを口説いているようだ。

楽屋の場面の最後にセシリアが抱いた企みと、このループする「オリヴィア」のささやきとがどうつながるのかはまったくわからない。ただひとつ注意しておくべきなのは、『十二夜』におけるヴァイオラとオリヴィアの関係だろう。ヴァイオラは遭難事故で離ればなれになった兄の姿を借りて男装しており、その中性的な魅力を買われてオーシーノ公爵に仕え、公爵とオリヴィアの連絡役を任される。オリヴィアは公爵の求婚に答えないが、やってきた「美青年」ヴァイオラには惹かれている。先のヴァイオラの台詞は、主人であるオーシーノ公爵の求愛を無慈悲に拒絶するオリヴィアを、主人になりかわって非難する箇所だ。しかしオリヴィアには、それがあたかもヴァイオラの自分に対する恋慕の告白のように聞こえている。それだけでなく、ヴァイオラの方はオーシーノに惹かれ始めているので、彼女がオリヴィアにこの言葉を告げるとき、オリヴィアへの嫉妬の念を抑えられないのである。

この二重三重に屈折しているシェイクスピアの台詞を、胸に企みを秘めたセシリアがサブリナの耳もとでささやくと、事態はもう一回折り返されることになる。その上二人は舞台で演じた役柄を、舞台を降りて演じ直しており、対話は延々とループする。だからこの場面で起こっているのは、オリジナルのシェイクスピアから数えてn回目の屈折である。

サブリナとセシリアが入り込んだダンジョンは、一歩間違えれば抜け出すことができない無限ループの魔界であったかもしれない。しかし、ここにある介入が生じる。二人が循環する終わりなき対話をやっている最中、一本の電話がかかってくる。ひとりで自分の台詞を続けているセシリアを置いて、いったん電話に出たサブリナは、相手に自宅の住所を教える(「332番地」と言うのが聞こえる)。この電話の結果はこの場面には描かれず、観客は事の次第をもう少し後になって知らされることになる。二人は電話の後もまた同じ対話のループに入るが、玄関のチャイムが鳴ると抱き合ってキスする。

この場面については、いろいろな捉え方ができるだろう。たとえば二人はシェイクスピアの台詞で対話しているのではなく、何か別のことを語り合っているのであって、シェイクスピアのループは、二人の語りに置き換えられているのだ、といった「解釈」など。しかしわたしはより単純に、映像と音声が示している通りにこの場面を受け止めたい。

さて続く場面でようやくマリア・ビジャールが登場する。先のサブリナの部屋とは別の室内である。彼女の名がビオラであることは、そばに立っている男性の呼びかけでわかる。部屋にはこの二人しかいないいるのはビジャールとそのそばに立つ男の二人。彼女はくつろいだ様子でソファに横たわっていて、男(アルベルト・アハーカ;『ロサリンダ』のオーランドー役)は彼女にシナリオの構想を語っている。ところでビオラとこの男の関係は最後まで明らかにされない(終盤近くに登場するビオラの同棲相手とは別人である)。さらに不思議な点は、アルベルト・アハーカが語る構想が、あたかもセシリアの企みの内容であるかのように、つまり直前のサブリナとセシリアの語らいの続きを説明しているかのように思えることだ――彼は言う、「通りに出た彼女は、二人の姿を見つけて、彼らとは反対の方向に歩き出す。しばらくして指輪を忘れてきたことを思い出して戻る。キスの後、彼女は彼と会うのを避けるため、彼がやってくるのとは反対の方向に走る。しばらくして指輪を忘れてきたことを思い出す。しかし戻ることはできない。どうだろう?」。ビオラの答えは「おかしいわ。指輪を忘れるなんて考えられない」。(先の無限ループの場面ではよけいな解釈を控えると言っておいて、こちらで控えないのは一貫性がないけれども、あえて書いておこう。わたしの考えでは、この場面のアルベルト・アハーカはおそらくピニェイロの分身であり、ビオラと呼ばれているビジャールもまだメタ・ビオラ(ビオラ役をやることになっている段階のビジャール)である。二人はまさにセシリアとサブリナの今後について構想している。この短い場面の後で、ビオラは街に出て、セシリアとサブリナに会うことになる。街に出た後、ビジャールは「監督」の構想を逃れてビオラになり、結果『十二夜』のヴァイオラとブエノスアイレスのビオラが結びつく)。

続くシーンでビオラは自転車に乗っている。冒頭の自転車のショットはビジャールを捉えたものだったわけだ。彼女はブエノスアイレス中を回って、CDが入った小包(Mという赤いロゴが無造作にハンコで押してある)を顧客のもとに配達している。後で彼女自身がセシリアに説明する通り、彼女とパートナーは二人で音楽制作を手がけており、自分たちの作品をネットで販売しているのである(Mは彼らのスタジオ「メトロポリス」の略号)。何軒かを回ったビオラは、携帯から顧客に連絡し、住所を確認する――「○○街332番地」。しばらくしてこの住所についた彼女が玄関のチャイムを鳴らすと、サブリナが出てくる。セシリアも室内にいる。ビオラがサブリナに小包を渡して価格を告げると、「そんなに高いのね、知らなかった。これは彼が注文したのよ。いま手持ちのお金がないので、悪いけど彼の自宅に行ってもらえないかしら。今日は一日家にいるはずだから」と彼女は答える。おわかりのように、この場面で二人のViola がなぜか出会ってしまうのである。

後半の白眉は続くセシリアの車内のシークエンスである。サブリナから絶縁されたばかりの元彼アグスティンの家まで、ビオラをセシリアが自分の車で送ったらしい(説明的な車の移動のショットはまったくない)(注2)。ビオラが訪ねた相手(サブリナから絶縁されたばかりのアグスティン)はちょっと外出中とのこと、帰ってくるまで車内で二人ビオラとセシリアは待つことにする。車内の二人を撮るアングルは当然アップの切り返しであり、ここで再び作品冒頭のアップの連続が戻ってくる。カーオーディオでは無調の室内楽が流れ、外は雨になっている(ビオラがサブリナの家に着いたときは晴れていたのに)。セシリアはシェイクスピアの本読みを始めるが、たまに本から目を上げてビオラの仕事について尋ねる。セシリアの言葉から彼女が女優であることを知ったビオラが、「何を演っているの?」と問い返すと、彼女は「いまはシェイクスピア。『十二夜』のビオラ(ヴァイオラ)よ」と答える。普通の映画ならここでビオラが「わたしもビオラよ」などと続けそうなところだが、もちろんそんな展開にはならない。セシリアはたまたま通りかかった劇団の同僚ルト(ロミーナ・パウラ;『みんな嘘つき』のエレナ役)を呼び止め、今度は三人でとりとめのない会話を続ける。

とにかく夢のようなシークエンスである。雨でくもったフロントガラスからはほとんど外の景色は見えない。狭苦しい車内で、順次アップになる三人の美しい女優の顔。特別に意味のない語らいと音楽。このシークエンスの編集からは時間の経過が読めない。途中通りかかったもう一人の知り合い(ヘロニモと呼ばれていたと思うが不確かである)のショットが挿入され、その後三人の話題はビオラと彼氏をめぐって進む。正直に言って何がどうなっているのかわからないシークエンスなのだが、まことに素晴らしい(注3)。

ここまで辛抱強く読んでくださったかたがもしいるとすれば、それでセシリアの企みはどうなったのだと言われるだろうが、別にどうもならない。しかし十分ではないか、代わりに三人の二人のViola がこうして邂逅したのだから(すでに述べた通り、ルトはセシリアの前任の女優なので、ヴァイオラ役を演じた可能性がある)

このシーンで重要な点は、セシリアがビオラに、もうすぐ自分は舞台をやめる、もしその気があれば、あなたが代わりに舞台に立ったら、と勧めることだ(ビオラはシェイクスピア『お気に召すまま』の後口上の台詞(注4)を暗唱できるのである)。つまりここで二人のViolaが出会うのは、舞台から飛び出したはずのシェイクスピアのテクストが、再び舞台へ戻っていくためなのだ。幾重にも折り畳まれたヴァイオラの台詞は、こうして再度ひもとかれる。もう一つ、これはギミックといえばギミックだが、車内でビオラは舞台用の作り物の赤い指輪を見つける。『十二夜』の対話の最後にオリヴィアがヴァイオラに与えようとするのとおそらく同じ指輪(注5)で、セシリアかサブリナが置き忘れたものである。セシリアはそれをビオラにあげる。するとビオラはラストシーンまでずっとこの指輪をつけている。先にわたしがアルベルト・アハーカとビジャールのショットをメタ・ビオラだと述べた根拠のひとつはこの設定にある。あの場面でビジャールは「指輪を忘れるなんて考えられない」と言うのだが、現に指輪は忘れられていた!

最後の場面はビオラの彼ハビエルの自宅兼スタジオである。彼はMのハンコにするための巨大なジャガイモを買ってきてくれるだけでなく、「(ジャガイモを)洗って」というビオラの指示にも快く答えてくれるような優しい人だ。しかしここに一つの謎が持ち上がる。セシリアに招待されてシェイクスピアの舞台を見に行くことにしたビオラが、いっしょに行こうとハビエルに言うと、その芝居ならもう先週ひとりで見たというのだ。実は冒頭の舞台のシーンでアップになっていた眼鏡の男こそハビエルである。しかもサブリナセシリアは、この眼鏡の男がずっとわたしを注視していたので、彼の方だけを見て演じていたと楽屋で証言している。どうですか、まためんどくさいループの予感がしませんか?

このスタジオのシーンにはもう一つ謎めいたショットがある。Mのロゴをハンコで押す作業をしているビオラにハビエルがキスするショットに続く、ビオラの正面アップで、彼女自身の独白がオフで被るーーわたしは不思議な夢を見た、それをルトにも伝えた、と。しかし、夢というのが何を指しているのか、どうして知り合ったばかりのルトを親しい友人のように言うのかはわからない。この独白を軸に作品を見直すと、また別の相貌が現れるかもしれない(注6)。

やがてスタジオではバックミュージシャンを加えたセッションが始まり、ビオラもいっしょに歌い出す。マリア・ビジャールは『みんな嘘つき』でもギターの弾き語りをやっていたが、『ビオラ』のエンディングの歌は調子外れなところがとてもよい。ラストシーンはこのフィルムの様式的な統一に従って、ビオラのクロースアップである。

こうして映画はどこにも収束することなく終わる。しかし、『十二夜』の中でもがいていたテクストが、舞台に溢れ出るだけでなく女優たちの生活の場にまでしゃしゃり出て、彼女たちを恐ろしい無限ループに引きずり込むと思いきや、たまたま訪れた赤の他人のビオラとの出会いによってループを解き、今度は彼女を舞台へ誘うという展開はきわめて刺激的である。ビオラが自転車で走るブエノスアイレスの街路のショットと、それを挟み込むように全編に充満するクロースアップの連続による映像処理は、作品の主題と見事にかみ合っている。優れた作り手が独自の様式を作り出すさまを記録した証拠物件という点でも、このフィルムは得がたいものである。

【注記】 この拙文は、今年12月12日のアテネ・フランセ文化センターにおけるピニェイロ特集で初めて一回だけ見た『ビオラ』の記憶にもとづいて書かれているため、作品の構成を細部に至るまで正確には捉えていないかもしれません。さいわい『ビオラ』はソフト化されており、わたしは今日それを注文しました。来年はじめに届く予定なので、見直して問題点を発見したら、訂正の上改めてエントリーをアップします。またすでにご覧になったかたからのご意見、ご指摘をお待ちしております。

注1 以下のエントリーにこの箇所の英字幕をDVDから訳出した上で、改めてセシリアの企ての内容を説明しておいた(『ビオラ』(3))。
注2 削除箇所は記憶違いで、正しくは以下の通り。ビオラとセシリアは別々にアグスティンの家まで行き(前者は自転車、後者は車)、玄関で再び会う。ビオラが自転車で市街を行く複数のショット→アグスティンの家の玄関をノックし、返事がないため窓を見上げるビオラ→そこへやってきたセシリアとビオラがもう一度窓を見上げるショット→セシリアの車の中から助手席に乗り込むビオラを捉えたショット、という順序で繋がれている(セシリアの車の移動シーンはない)。
注3 この箇所の記述には細部に誤りがある。このエントリーで訂正した(『ビオラ』(4))。
注4 『お気に召すまま』の後口上(納め口上)はロザリンドによる。ピニェイロの前作『ロサリンダ』は『お気に召すまま』を織り込んで成り立っているだけでなく、最新作『フランスの王女』のエピローグもまた、このロザリンドの口上である(エンドロール後の、暗転した画面に被るオフのナレーション)。12月12日の『フランスの王女』東京初公開時、「私の心からのお願いをお聞き入れになって、このように頭をさげます私に、拍手をもってお別れのあいさつをお与えくださいますよう」というナレーションに、わたしを含めてだれも答えなかったのは残念である。いつもの殺伐としたアテネ・フランセ文化センターの常連に一言文句を言っておく。
注5  DVDを見て気づいたが、この指輪は舞台のシークエンスの始まりにも登場していた。オーシーノ公爵の使いでオリヴィアを訪ねて来たヴァイオラが、公爵からの贈り物としてオリヴィアに渡そうとして拒絶されるのも、同じ指輪である。
注6 こちらのエントリー(『ビオラ』(4))でビオラの独白を訳出し、よりくわしい考察を加えておいた。

【履歴】 2015/12/23 誤りを訂正し、注1、2、3、5、6 を新たに付した。

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