『フランスの王女』(マティアス・ピニェイロ、2014)

『恋の骨折り損』(Love’s Labour’s Lost)は言葉の劇である。ナバラ王と三人の臣下、フランス王女と随伴する三人の女性それぞれが言葉の掛け合いを披露し、王以下四人の男たちは王女以下四人の女たちに恋の詩を贈るだけでなく、男たちは変装して間違った相手を口説き、周辺の人物たちもまた矢継ぎ早に地口、駄洒落、ラテン語を織り交ぜた台詞を発する。王が恋愛禁制の誓約を反古にしたした後には劇中劇が催され、フランス王の急死の知らせを受けて王女たちが帰国することになり、ナバラ王と三人の臣下の求愛に一年間の待ったがかかった後、納め口上の代わりに登場するのは冬と春の歌である。『十二夜』や『お気に召すまま』のような入り組んだ筋書きも、ジェンダーの交換もない。しかし全編隙間なく敷きつめられた言葉遊びには、読む喜劇あるいは聴く喜劇としての独自の様式性がある。

マティアス・ピニェイロの最近作『フランスの王女』にモティーフとして取り入れられているのが、この『恋の骨折り損』だ。おそらく映画に引用しにくいシェイクスピア作品の筆頭と言っていい。ここにまずピニェイロの挑戦がある。

彼は『みんな嘘つき』で四組の男女が交錯するドラマを撮っており、そこにはシェイクスピアからの直接の引用はないものの、この作家の喜劇の構成法がすでに参照されていた。さて『恋の骨折り損』にも四組の男女が登場し、一年間の猶予期間を置くという条件付きではあるが、それぞれ将来の婚約を合意して幕となる。しかしこうした筋書きをそのまま映画にしても見栄えはしないだろう。シェイクスピアのこの作品で四組の男女は、遊びに満ちた台詞の応酬を支えるシンメトリーだからである。そこでピニェイロが採った方法は、第一に様式的な言葉の喜劇である『恋の骨折り損』を、ラジオ・ドラマとして演出するディレクターを主人公に据えること、第二に男四人対女四人の恋愛劇を、男一人対女四人のそれに替えることだった(一対四といってもそれは必ずしも恋愛遍歴ではなく、基軸となるのはあくまで一組のカップルである。またこの中心的なカップルさえもハッピーエンドを迎えることはない。だから人物の置かれた状況とその帰趨は、『恋の骨折り損』のそれらとは一致しない)。

そのためシェイクスピア作品の設定または台詞をそのままドラマの原動力としていた前二作とは異なり、主人公ビクトル(フリアン・ラルキエル・テジャリーニ)と彼を取り巻く四人の女たちのエピソードの方に重心が置かれることになった。ではこのフィルムにおいて、『恋の骨折り損』はたんなるモティーフに過ぎないのだろうか。そんなことはない。というのは、誓いを破ってまで恋した相手に近づこうとして挫折し続けた男が、ようやく恋が実りそうになったところでまたも宙吊りにされるというシェイクスピア作品の骨格は、『フランスの王女』にもそのまま受け継がれているからだ。この映画では四人の女性との間で、いずれもうまくいかない恋愛をするのはビクトル一人ではあるけれど。

作品の冒頭では次のような四つのイメージ群が提示される。1) シューマンの交響曲第一番『春』の第一楽章冒頭(放送音源なのか、紹介のナレーション音声に続いて流れる)。2) ビル屋上の女性の視点から夜のブエノスアイレス市街を俯瞰のパンで捉えた長回し(街の全景を収めるゆったりしたパンは切れ目なしにハイスクールの生徒たちがサッカーの練習をするコートに移り、カメラは数分そこで停止して練習の様子を撮り続ける。その後練習を終えて整列した生徒たちの前から、まるで戦列を離れるように赤いトレーナーを着たコーチが突然駆け出し、生徒たちがそれを追いかける)。3) 走って来た赤いトレーナーの女性(アグスティーナ・ムニョス)が建物に入って階段を下り、トレーナーを脱ぎ捨てると、階段に面したドアからビクトルによって芝居の稽古場に迎え入れられる。リハーサルを見学する二人を背後から俯瞰で寄って撮る長回しになり、カメラは二人の間を交互にゆっくりパンするとともに、リハーサル中の俳優の姿をも捉える。ビクトルが女に近づいてキスすると、彼女は外へ出ようと言う。4) おそらく同じ女性のナレーションで、その後ビクトルはメキシコに旅立ち、二人の間に距離が生じたこと、近々ビクトルがブエノスアイレスに戻り、以前のメンバーとともに再びシェイクスピアの演出を始めようとしていることが語られる。

アグスティーナ・ムニョスが演じている人物の名は、後にパウラだとわかるが、いま紹介したイントロダクションを見るだけでは、観客には彼らの関係はほとんどわからない。それどころか稽古場のキスシーンは照明を落としたショットであり、物語がもっと進行しないと二人がビクトルとパウラであることさえわからない。にもかかわらず、このイントロダクションには本作品の構成要素がほとんどすべて揃っており、映画が終わってから思い返すとその意味がよくわかる。すなわちビクトルとパウラは愛し合っているのに、互いの間にある距離を越えることができない。これは『恋の骨折り損』の基本的な設定でもある――ナバラ王とフランス王女とは愛し合ってはいるが、王自身が立て、かつ破った誓いが障害となって近づくことができない。

ところでわたしたちが『ビオラ』で見たような、シェイクスピアの台詞に登場人物たちがからめ取られていく様式的展開は、本作に受け継がれているだろうか。直接受け継がれたとは言えない。しかし、『ビオラ』の循環する対話に匹敵する、できごとを屈折させ凝縮する表現は随所にある。ピニェイロ作品の特質は、一見簡潔な表現が折り畳まれた襞を持つところにある。『フランスの王女』でこの襞にあたるものの一つは、単一のエピソードを複数の異なるヴァージョンで提示する、いわば可能世界分岐の手法だ(古典的な作品では『去年マリエンバードで』のそれが有名だが、ピニェイロのこのフィルムでは分岐を介して異なる物語がパラレルに展開する構成にはなっていない。なぜなら複数の可能なヴァージョンが挿入されるのはビクトルとパウラのではなく、彼がつきあっていたもう一人の女性、ナタリア(ロミーナ・パウラ)のエピソードであり、ビクトルとナタリアとは結局すれ違ってしまうからである)。『ビオラ』におけるできごとの襞の代表は二人の女優の間で交わされる対話のループだった。しかしこの襞がシェイクスピアの台詞に直接支配されていたのに対して、『フランスの王女』の可能世界の分岐はシェイクスピアとは無関係である。たしかに先に紹介した冒頭のエピソード群は、『恋の骨折り損』のテクストの中に織り込まれている設定の中核を引き出し、かつ『フランスの王女』の主題を圧縮して表現している点で、襞の表現の一つである。しかし、ナタリアとビクトルのエピソードに含まれる分岐の表現は、本作品の主題(ナバラ王とフランスの王女を、またビクトルとパウラを隔てる距離を主題とみなすならば)とも、シェイクスピアのテクストとも関係がない。この点で、せっかくのパラレルワールド的な表現手法が浮いてしまっていると言えなくもない。

『恋の骨折り損』のテクストそのものはどのように参照されたり、活用されたりしているのだろうか。シェイクスピアのこの作品が言葉の喜劇であり、映画に引用されるのが困難であることは先に指摘した。おそらくこういう事情もあって、『フランスの王女』ではビクトルが演出するラジオ・ドラマのスタジオ収録という設定でシェイクスピアの台詞が引用されている(先に紹介した冒頭の稽古場の長回しでリハーサルされているのは『恋の骨折り損』ではなく、そこで聞こえる台詞の内容から推測すると、シェイクスピアのいくつかの作品から抜粋した台詞をビクトルが編集したものである)。ビクトルを取り巻く女たちは同じ劇団のメンバーであり、ラジオ・ドラマの収録にも参加しているので、この設定は本作の構成とうまく適合している。帰国後のビクトルが再会し、離れていく女たちがスタジオでは仕事仲間として集まり、『恋の骨折り損』の台詞を吹き込むからである。

たとえばパウラはビクトルの帰国後すぐには彼と再会しない(彼がメキシコに滞在している間に別の男とつきあい始めていたのである)が、スタジオ収録を機にビクトルとよりを戻す。この展開は、王の馬鹿げた誓いのために宮廷に入ることを許されなかったフランス王女を一目見て惚れてしまった王が、誓いを反古にして恋の歌を贈ったりロシアからの客人に変装したりして王女に近づこうと試み、これをあきれつつも微笑ましく感じた王女から愛を受け入れられる展開に呼応しているとも言えるだろう。しかし、『恋の骨折り損』のナバラ王同様、ビクトルは再び恋人から引き離されることになる。彼女が別の男とつきあっていたことを知り、それを許せないのだ。

冒頭のイメージの構成、サッカーのコートという予想外の場所から走ってくるパウラを稽古場で迎えるビクトルの映像にシューマンの音楽を重ね、また稽古場でのキスシーンの直後にビクトルの旅立ちを繋ぐという演出は、ビクトルとパウラの近さと遠さを同時に描き出すことに成功しており、そこにシェイクスピアの舞台の映像を織り込むことで、作品のその後の展開を巧みに予示している。67分という短さの中に凝縮されたできごとを折り畳む手際は見事である。ただ、『ビオラ』の場合とは異なり、本作品に取り入れられたシェイクスピアのテクストは、映画の構成と必ずしも結びついてはいない。それだけピニェイロの映画的想像力の方が前面に出たと言えるかもしれないし、あるいは『恋の骨折り損』というテクストを採用する意欲的な試みが困難にぶつかったと言えるかもしれない。

フェルナンド・ロケットのカメラは、クロースアップを多用した前作の映像に比べると、冒頭の長回しやブグローの絵の細部を追うパン、エリサ・カリカホの回想場面でのクラブのショットなどに見られる通り、マニエリスムに近づいている。この点の評価はおそらく見る人の間で大きく分かれるだろう。わたしはピニェイロとロケットのコンビネーションは稀有であると思うし、今回の映像も大いに楽しんだ。

次回作は ‟Hermia & Helena” だそうだ。『夏の夜の夢』をモチーフにしているのだろうから、交錯するプロットとキャラクターの扱い方によっては『みんな嘘つき』に回帰するかもしれない(『みんな嘘つき』はすでに『夏の夜の夢』を髣髴させる作品だった)。しかしその場合でも、『ビオラ』と『フランスの王女』によって達成された襞の多い凝縮された表現が後退するとは考えにくいので、ことによると集大成的な作品になるかもしれない。

 

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