『ビオラ』(マティアス・ピニェイロ、2012)(3)

マティアス・ピニェイロ『ビオラ』のDVD が届き、見直して非常に優れた作品であることを再確認した。先のエントリーで述べた主旨に変わりはないが、見落としていた細部を確認して、いくつかの疑問が解けた。

先のエントリーに含まれる『ビオラ』の映像や構成についての誤った指摘は、きちんと報告して訂正しなければならない。旧エントリーへの直接の訂正(「履歴」で訂正内容と日付けを明記する;ただしこのエントリーの掲載後)に関する注記として、こちらの記事では訂正内容の詳細とそこから得られた発見について述べることにする。

私見では、ピニェイロ監督とその代表作『ビオラ』は現代映画を見たり論じたりする上で重要であり、これからさらに両者の評価は高まるはずである。本作品のDVDは映画、演劇(特にシェイクスピア)に関心をお持ちのかたが購入してけっして損するものではない(むしろ視聴されないことによる損失の方が大きいと思う)。これから『ビオラ』をご覧になるかたは、視聴後にこの先の記述を読まれることをお薦めする(そもそも『ビオラ』を一度も視聴されたことのないかたが、こんな記事をわざわざ読まれるはずもないのだが)。

ここで取り上げる訂正あるいは発見箇所は以下の通り(相当長くなりそうなので、エントリーは二回に分ける)。

1 自作(『ビオラ』とこれに先行する舞台作品)への引用にともなう、ピニェイロによる『十二夜』の台詞改変について。
2 舞台シーンでの指輪の扱い。
3 舞台シーンでハビエルが見つめる女優(セシリア)について。
4 楽屋での四人の女優の会話と、その後のセシリアとサブリナのループする対話の関係。
5 ループする対話のシークエンスからビジャール=ビオラの最初の顧客(アルベルト・アハーカ)へのつなぎ。
6 サブリナの家からアグスティンの家へのビジャール=ビオラの移動。
7 アグスティンを待つセシリアとビジャール=ビオラの車内のシークエンス。
8 そこでの「夢」の描写について。
9 ハビエルの自宅での「夢」への言及とその問題点。
10 ラストのビオラの歌の内容。

1 自作(『ビオラ』とこれに先行する舞台作品)への引用にともなう、ピニェイロによる『十二夜』の台詞改変について。
『ビオラ』のDVDの付録の一つに、監督がこのフィルムに先んじて舞台演出したシェイクスピアの翻案劇の公演が収録されている(“And when I love thee not, chaos is come again”;『ビオラ』の劇中劇と同じくアグスティーナ・ムニョスおよびエリサ・カリカホ主演)。これは『ビオラ』のセシリアとビオラの車中の対話で言及されている劇中劇のモデルで、シェイクスピアのいくつかの作品から台詞を抜粋し、細部に変更を加えて再構成したものである。そこに引用されている『十二夜』第一幕第五場のオリヴィアとヴァイオラの対話では、ヴァイオラはバサーニオ、オーシーノ公爵はアントーニオにそれぞれ置き換えられている。この変更は『ビオラ』冒頭の劇中劇でもまったく同じだ。先のエントリーでわたしは、この箇所を『十二夜』からの直接の引用と書いたが、誤りである――『十二夜』の台詞を上記の通り改変して引用したシェイクスピア翻案劇の引用、というのが正しい。なお、『フランスの王女』冒頭の稽古場のシーンで行われているリハーサルも、登場人物の名から見て同じ作品のそれだろう。

2 舞台シーンでの指輪の扱い。
『ビオラ』のシェイクスピア劇の舞台シーンに登場する赤い作り物の指輪(フィルム後半、セシリアの車中でビオラが見つけるもの)について、先のエントリーでは舞台の場面最後にオリヴィアがヴァイオラに褒賞としてこれを与えようとする点のみを指摘した。しかしこの場面以前にも、ヴァイオラがオリヴィアに初めて対面する箇所で、ヴァイオラがオーシーノ公爵から預かってきた贈り物というかたちで登場していた(“And when I love thee not, chaos is come again”の当該場面でもこれと同じ小道具の指輪が使われている)。つまり、オーシーノからヴァイオラの手を経てオリヴィアに贈られようとした(そしてオリヴィアから拒絶された)指輪と、同じ対話の最後でオリヴィアからヴァイオラに贈られようとしてやはり拒絶された指輪は同じものである。フィルムの後半でビオラがずっとこの指輪をしていることとの関連で、この点は重要である。

3 舞台シーンでハビエルが見つめる女優(セシリア)について。
先のエントリーでは、シェイクスピアの舞台を見ている眼鏡の男(ビオラのパートナー、ハビエル)がずっと見つめていたのはサブリナだと書いたが、これは間違いである。舞台がはねた後の楽屋で四人の女優が会話する内容から、ハビエルが見つめていたのはセシリアであることがわかる。この点も、フィルムの最後、ハビエルとビオラのエピソードの内容を把握する上で重要だ。

4 楽屋での四人の女優の会話と、その後のセシリアとサブリナのループする対話の関係。
先のエントリーでも、なにごとかを企むセシリアの文脈で注目した箇所である。男に飽きたら即捨てるべしというサブリナの持論に対して、セシリアはサブリナが帰った後で残った二人の女優を相手に「女は自分を求める男に欲望を抱く」と述べ、自分を愛してくれるアグスティンを捨てようとしているサブリナは間違っていると主張する。この点は先のエントリーでも指摘したが、かんじんのセシリアの企みを取り違えていた。弁解めくが、この点は重要な台詞を切りつめてしまった日本語字幕にも問題があるように思う。『ビオラ』を日本語字幕でしかご覧になっていないかたのために、DVDの英字幕からの重訳ではあるが、以下当該箇所を訳出しておく。Cはセシリア、A、Bはあと二人の女優の台詞である。

C「みんなちゃんと考えてない――彼が捨てるかもしれないのよ、わたしじゃなくて彼のほうが勝手に決めちゃう。ほとんどそんなものじゃないかしら、少なくとも半分はそうよ。わたしだったらわたしを愛してない人なんか愛せない。わたしを受け入れないだれかを愛するなんて理解できないわ」
A「マゾなら理解できるかも」
B「愛してない男を落とす楽しみもあるわ。誘惑して落とすためには、不利なものでも何でも利用して」
C「わかるけど、わたしはわたしを求めてくれる彼だけが欲しい」
A「世界はあなたを中心に回ってるわけ。サブリナよりずっと自己中ね」
C「ちがうわ、その反対よ。わたしは彼と一体、完璧にコミットするの」
A「いいわ。でも、自分をきれいだって思わせてくれる彼氏の目に映った自分を見ているときだけでしょ」
B「自分自身を愛していたのに、それに気づいてなかっただけよ」
C「ちがう、状況によるわ。雰囲気とか気分とかじゃなく、彼しだい」
A「でもすべて彼しだいなら、自分の考えはどうでもいいの?」
C「彼が関係の中心なのよ。そして時がたてば関係そのものが発展するわ」
B「それじゃ、サブリナは完全にまちがっているわけね」
A「たぶん、彼女が思っているとおりなら。彼女のことばどおりならそうじゃないけど」
B「アグスティンのところに戻るように言えば」
C「ことばだけじゃ納得しないでしょ」
B「ならなんとかしなさいよ」
C「なんとかするわ」
B「そうよ。どうにかしてわからせなきゃ」
C「でも強制はできないわ」
B「もしあなたがいうとおり、女はだれかの欲望に惹きつけられるというなら、サブリナはどうにもならないほどの恋を経験するべきね」
A「すごい男はいないかしら」
B「もしあなたのいうとおりじゃなかったら、すべてもとどおりになるわね」
C「もちろん。もしそうならいいわ。サブリナはアグスティンと別れなくちゃいけない。でも、もしわたしが正しいなら、ふたりはやり直さなくちゃいけない」
B「だれかに彼女を誘惑させるのよ」
A「彼女を追いまわして」
B「彼女が喜びそうなことをいうだれかとか」
C「彼女が好きなタイプのだれかとか」
A「だめよ。それじゃかんたんすぎる。セシリアのセオリーにぴったり」
B「じゃ、サブリナが嫌いなだれかは」
A「だめ。反対の結果になるに決まってるから」
B「答えはその中間よ」
C「わかったわ、なぞなぞはおわり」
B「視点を変えるのね」
C「常識にさよならよ」
B「だれがそのだれかになるの」
C「あなたたちに助けてもらってもかまわないわよ」
A「そんな気はないわ」
C「ならはっきりいうわね。もし男たちが登場しなければ、わたしは二倍正しいことになる。そしてもし愛が生まれるとすれば、一度でもサブリナが誘惑されたなら、そのだれかはわたしのほかにいないわ」

おわかりのように、セシリアは自分がサブリナを誘惑することで、彼女に‟欲望されることへの欲望”を理解させようとしているのである。こんなことをしてサブリナがアグスティンとよりを戻すきっかけになるとは到底思えないが、これがセシリアの思惑であることに間違いはない。したがって、これに続くセシリアとサブリナの無限ループの会話が、前者による後者の誘惑であることは明らかである。

(つづく)

 

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