『ビオラ』(マティアス・ピニェイロ、2012)(4)

5 ループする対話のシークエンスからビジャール=ビオラの最初の顧客(アルベルト・アハーカ)へのつなぎ。
サブリナとセシリアのループする対話を締めくくるのは、ドアをノックする音に続く、サブリナのセシリアに対する熱いキスである。このショットはすぐに別の室内にいるビジャール=ビオラとアルベルト・アハーカの場面に繋がれること、これが冒頭の自転車のショットを除けば彼女の初登場シーンであることは旧エントリーで述べた。また、あたかもこの繋ぎが先のループする対話を受け継いでいるかのように感じられると指摘し、ここでアルベルト・アハーカが語るシナリオは、ピニェイロ自身がビジャールと本作の構想を語り合った内容を反映しているのではないか、言い換えればこの場面は映画『ビオラ』を作る過程を振り返ったメタ・ビオラのそれではないかという仮説を述べた。
この最後の読みはたしかに恣意的だから、取りあっていただかなくていい。ただDVDで見直して、なぜこのような印象を与えるのかの理由がわかったので、その点について書いておく。
サブリナとセシリアのキスに続くのは机の上に置かれたMのロゴのある小包の短いショットで、男の声がこれに被っている。すぐに語っている男のショットになり、カメラがゆっくりパンすると、耳を傾けているマリア・ビジャールが前景に映る。彼女のアップになったところでカメラは停止して、男の姿はオフになる。この間男はずっと語り続け、彼女は黙って聞いている。内容はこうだ。「そしてキスの後で彼女は走らなければいけないと気づく。すぐに彼女のボーイフレンドがやって来ることを知っているからだ。彼が来る方向と反対に彼女は歩き、ふだん乗るバス停の三つ先まで行って、姿を隠すのに都合のいい満員のバスに乗る。ところがチケットを買うときに、彼女はポケットに指輪がないことに気づく。怖くなって彼女はバスから飛び降りるが、戻れないことはわかっている。彼女はディレンマに直面するんだ――戻って彼に会い、すべてが明らかになるリスクを冒すか、起きるべきことを起きるがままにしておくか。どう思う?」
これを聞くとビジャールはソファに横になり、「わたしなら指輪を忘れたりしない」と答える。謎の多いシーンである。アハーカの台詞の冒頭「そしてキスの後で彼女は走らなければいけないと気づく」は、直前のサブリナとセシリアのキスシーンを受け継いでいるように聞こえるし、指輪のエピソードも『十二夜』の舞台で二人が使用したそれを想起させる。もちろん彼が語っているシナリオは、三角関係を描くときのステロタイプだから、それだけの内容と割り切ってもかまわない。少なくともわたしにはショットの繋ぎ方ゆえに、直前のサブリナ+セシリアの場面とこのアハーカ+ビジャールの場面が密接に関連しているように見える。これがなぜメタ・ビオラの印象を与えるのか見直してわかったと先に述べた点である。
ところでMのロゴのある小包が映るのは、アハーカが彼女の顧客で、小包は彼女が配達したものだからだ。しかし彼女がソファでくつろいだり、シナリオの構想を男が長々と聞かせて彼女の意見を求めたりするところから見て、二人は親しい関係にあるはずである。だがこの関係の詳細は最後まで明らかにならない(エンドタイトルに表示されるアハーカの役名はたんに「顧客1」)。彼が語ったシナリオが何のためのものなのかも結局わからない。後でビオラはセシリアに、自分とパートナー(アハーカとは別の男)は音楽や映画を制作していると言うので、「顧客1」は彼らの映画制作の関係者なのかもしれない。なお旧エントリーでわたしは、この場面でアハーカがビジャールを「ビオラ」と呼ぶと書いたが、間違いである。彼女はアハーカ宅を後にして自転車で次の顧客の家に行き、玄関で「メトロポリスのビオラです」と告げるのだった。この記憶違いについては後で旧エントリーを訂正しておく。

6 サブリナの家からアグスティンの家へのビジャール=ビオラの移動。
サブリナとセシリアがループする対話を交わしているところへ、ビオラがアグスティンの注文したCDを配達しにやって来る。サブリナとセシリアの悪循環はこうして終わり、映画はここから二人のビオラの出会いへと移る。ところで、サブリナ宅からアグスティン宅への移動の描写はないと先のエントリーでわたしは書いたが、間違いである(間違いだらけで恥ずかしい)。正しくはこうである――ビオラは自転車でアグスティン宅を目指し、到着してノックするものの不在、そこへセシリアがやって来て(二人はさっきサブリナ宅で知り合ったばかりだ)、アグスティンはすぐ帰って来るはずだから、車で待ちましょうという話になる。これに続くのが、セシリアの車内のシークエンスである。

7 アグスティンを待つセシリアとビジャール=ビオラの車内のシークエンス。
このシークエンスは何度見ても素晴らしい。ビオラが助手席に座り、運転席のセシリアはシェイクスピアの本読みを始める。ビオラは助手席に転がっていた例の赤い指輪を見つけて、これ何?と尋ねる。セシリアは舞台用の模造品だからよかったらどうぞと言って指輪をビオラにあげる――このシーン以降ビオラはずっとこの指輪をしている。またこの指輪がきっかけとなって、セシリアが女優で、シェイクスピアの翻案劇をやっているという話になり、ビオラは舞台に招待されるわけである。次の項で述べるように、車内のシークエンスはルト(ロミーナ・パウラ)の登場によって様相を変えるが、それまではビオラとセシリアのアップの切り返しで撮られている。車内の会話なので声は低く、カーオーディオからは無調の室内楽が流れている。ルトが現れる前にビオラはちょっと眠ると言って寝てしまう。これが9の「夢」に呼応していることに、旧エントリーを書いた段階では気づいていなかった(映画を論じる資格なし)。

8 そこでの「夢」の描写について。
セシリアがルトを見つけて車内に入れるところから雨になる。たしかにこんなに急に天気が変わるのも不自然だから、この時点でこれはビオラが見ている夢だと気づくべきかもしれない。それだけではない。ルトの横顔のアップから、『お気に召すままの』の後口上をなぜか暗唱しているビオラのアップへの移行は切り返しでなくパンなのに、間にいるはずのセシリアの姿が全然映らない! 旧エントリーでわたしは、何がどうなっているのかよくわからないシークエンスだが、「夢のよう」だと書いた。しかし夢なのだから夢のようなのは当たり前であった。この後セシリアとルトは、ビオラとハビエル(彼女のパートナーで彼氏)の関係についてあれこれ批判する。しかし彼らはビオラのプライバシーについて知る由もないので、この展開もヘンである。さらにこの直後、ビオラは窓の向こうに知人のヘロニモの姿を認めてドアを開ける。このときドアの向こうに見える景色もたしかに非現実的である。このエピソードはまったく展開することなく、続いて「アグスティンが来た」と言ってビオラの肩をゆするセシリアのショットになる。こうしてビオラは夢から目覚めるわけだ。
しかし、このシークエンスでの夢と現実の境界はいまここに書いたように判明ではない。たしかにビオラは車中で眠り目覚めるが、その描写はあえて目立たないように行われている(たとえば車内のルトのショットは現実のように感じられる)。だから次項で見るラスト近くのビオラの独白が言及する「夢」が、この映画のどこからどこまでを指しているのかははっきりしない。
映画の文法から言えば夢として位置づけられるショットを文法通りに撮ると同時に、夢と現実の不分明さをも描いてみせるというのが、ここでピニェイロが採った方法ではないかとわたしは考える。
なお、旧エントリーではルトをセシリアの前任者と書いたが、正しくは後任者だった。まだルトは舞台に出ていないので、「三人のViola」が存在するとは言えない(うう、くやしい)。

9 ハビエルの自宅での「夢」への言及とその問題点。
ハビエルの自宅の場面で、彼とキスした後のビオラのアップに被って、次のようなオフの独白が流れる。「もう一度彼にキスした後、わたしはルトに書き送った、わたしが何を夢に見たか、わたしが何をしたか、わたしがこのごろ何を信じているかを彼女に話したい、すべてうまく行っていると伝えたいと。わたしたちが劇場に行って彼をセシリアに紹介したときでさえ(うまく行っていた)――彼女に彼はしょっちゅう会い始めたのだけど、ついにすべてが変わるまで。彼が歌っているときには、わたしは彼をほんとうに愛していると思った」。
この独白だけを聞くと、ビオラとハビエルの関係はかなりはかないもののように感じられるが、直後に映るスタジオでの二人の様子は幸福そのものである。ハビエルの調子はずれの歌に微笑むビオラのアップの表情はじつにやさしく美しい。
それだけいっそうこの独白の中味は謎である。これを文字通りに受け止めてみよう。するとビオラとルトはメールのやりとりをするくらい親しい間柄であり、過去にビオラはハビエルをセシリアに紹介したことになる。しかし、この独白の直前、ビオラはまさにそのセシリアの芝居にハビエルを誘うものの、彼の方は先週の金曜に同じ舞台をすでに見たと言って断るのだ(ついでに言えば、独白の直前、ハビエルは一回しかビオラにキスしない)。つじつまが合わないのはこれだけではない。この独白でビオラは「夢」について触れており、一般的な映画の文法に従えば、先項で見たように「夢」とはセシリアの車内でビオラが見たルト登場以降のエピソードを指すはずだ――つまりビオラは前からルトを知っていたのに、あたかも初対面のように夢の中で彼女と会った。ところが、セシリアがビオラを舞台に招待するのもまさにこの「夢」の中でなのである(この点は何度も確認したのでどうか信じてください)。
台詞にこだわらずにイメージを追いかけている限りでは、こういうこんがらかった話であることに気づかずにすますこともできる。アルベルト・アハーカの場面やあの車内のシークエンスでさえ、「夢のような」現実と見ることは可能だし、撮影と編集はむしろ両義的な表現(夢とも現実とも定かならぬ描写)をねらっているように思える。だからこの「独白」とそこに出てくる「夢」にこだわりすぎて、これらを軸に物語を説明しなおそうとするのは、本作品の享受のしかたとして平板に過ぎるだろう。この映画に登場するいくつかのできごとは、一つの世界において整合性と一貫性を持ちうるようには配置されていない。「夢」という装置を持ち込んだところで解決にはならないのである。よってラスト近くのビオラの独白を、あたかも作品の謎を解くヒントのように受け止めるべきではない。

10 ラストのビオラの歌の内容。
こんなことをビオラとハビエルのふたりは陽気に歌っている(長いので抜粋)。「このナンセンスをそっくり/教えてくれたのはきみ/ありがとう恋人よ/きみがいなかったら笑わなかった」、「遠くに旅立つことだってできる/こんな街には/二度と戻らない/何て街だ!」、「なぜならぼくは海に行き/そして沈むのだから/たったひとりで/きみがばかをやればきみのことも気にしない/きみはいらない/きみを忘れよう」。

 

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