ハドリー、ソクラテスをこき下ろす

わたしたちがハドリー警視として知っている沈着冷静な人物は、『帽子収集狂事件』ではまだ首席警部で、ユーモアのセンスも遺憾なく発揮する。ただし、そのせいもあってこの作品の中盤には脱線が多い。邦訳pp.246-247 から珍しく捜査とは関係のない、ハドリーのなかなか愉快な長広舌を引用しておこう。

「ふむ」ハドリーがなにか思いついてこう言った。「ひらめいたぞ! 小説の探偵のまねごとがそもそもどこから生まれたかわかりましたよ。プラトンの対話編の、あのギリシャの哲学者だ。あいつにはいつも我慢ならない。ギリシャ人がふたりで歩いている。誰もじゃますることなくね。そうしたらこのいまいましい哲学者がやってきて、“ボン・ジュール” と言うーーまあ、とにかくアテネで使われていた挨拶をーー“ボン・ジュール、諸君。今日の午後、急ぎの用事はあるかね” と。もちろん、そのふたりの男に急ぎの用事などない。あったためしがないんだから。古代ギリシャでやるべき仕事がそこまであったとは思えない。歩きまわって哲学者を追いかけるくらいでよかったんだ。そこでソクラテスはこう言う。“それならよかった。ここに腰を降ろして対話しよう” こうして問いを出してふたりに解かせる。もちろん、ソクラテスは答えを知っている。その質問というのは “アイルランド問題をどう思うか” や “今年のクリケットのテストマッチはアテネとスパルタのどちらが勝つか” のような良識あるものじゃないんだ。いつも魂についてのぞっとする質問だ。ソクラテスは質問する。それからひとりが声をあげ、九ページほど語る。するとソクラテスは首を横に振って悲しげにこう言うんですよ。“ちがう” 残るひとりが解答を試みて十六ページ分語る。そしてソクラテスは言うんですよ。“やれやれ!” 次の犠牲者はきっと暗くなるまで語ったにちがいありませんね。そしてソクラテスは答えるんですよ。“かもしれない”。人々はけっして怒ったりせず、ソクラテスの頭をオベリスクでぶん殴りもしない。このわたしはあれを読んでそうしたいと思いましたが。ソクラテスはけっして自分の意見をはっきりと言わないからです。それがあなたの愛する小説の探偵たちの起源ですよ、博士。そんなまねはやめてほしいですね」
葉巻に火をつけていたフェル博士は非難するような表情になった。
「ハドリー、きみのなかには、予想外に皮肉な血が流れておるな。それにたいていの愛書家が見過ごしていたイデアの萌芽にも気づいておる。ふむ。わし自身もギリシャ人たちほど忍耐強くないぞ。だが、いまは本題から離れんでおこう。殺人の話を続けるぞ」

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