様式の混合、あるいは様式の誕生について

芸術作品についてわたしが抱く関心の焦点は、様式の混合、あるいは様式の誕生にある。

このブログでは映画、文学、美術、音楽などをしばしば取り上げている。たまたまその時に出会った作品の感想を書くことが多いため、雑駁な(煮え加減の悪いごった煮のような)印象を与えているはずだ。気まぐれと言われれば否定はしない。しかし、言及される作品の集まりが偶然と気分に由来する雑多な取り合わせになっているからと言って、それらを取り上げるしかたまでが無秩序であるわけではない。

まずわたしがあるひとりの作家の作品を論じる際、注目しているのは常に、その作家がどのように様式を作り出そうとしているかという点である。たとえばわたしは溝口健二の戦後第一作から八作品(戦後の代表作である『西鶴一代女』や『近松物語』以前の、比較的言及されることが少ない作品群)を立て続けに取り上げたことがある。『西鶴一代女』と『近松物語』は圧倒的な作品であり、わたしもこの二作を評価する点では人後に落ちない。しかし、同時にわたしは、どのような試みを経てついに溝口がこういう傑作を撮るに至ったのかという事情についても知りたいのである。いわゆる作家主義(この概念自体に疑念が寄せられるようになって久しい)を採る批評家は、しばしばその作家の代表作に光を当てる。それはもちろんたいせつなことだが、それだけではすでに完成された様式について点検したり評価したりするだけに終わる危険がある。そういう批評はしかるべき専門家に任せ、わたしのほうは作家が試行錯誤したり、失敗を重ねたりしながら様式を作り出す現場を探索したい。傑作を論じるのは比較的簡単である。これに対して、既存の様式が内側から殻を破って新たな何かを生み出そうとしているところや、それが失敗に陥るさまを観察して記述するのは手間がかかる。しかし、やってみればわかることだが、これこそがおもしろい。

次に、わたしは異なる複数の様式の交差から生じるものに関心がある。映画、文学、美術、音楽といった個別のジャンル、また個々の作家と作品にはあまり興味がない。たとえばわたしがシュレーターやピニェイロに惹かれるのは、彼らがたんなる映画作家ではなく、映画を通して演劇や文学との危険な(ゆえにスリリングな)衝突を試みるからである。またペッツォルトやゴメスを論じるときには、たとえばメロドラマやドキュメンタリーなど、一見して作品の主題とミスマッチであるように思える表現方法を取り入れる試み(自分で自分の様式の早まった完成を遅らせるかのようなやり方)に照準を合わせることを狙っている。現代作家の作品を見たり論じたりするおもしろさはまさにこの点にあると考えるからである。わたしには彼らの作品が優れているかどうかはそれほど重要なこととは思えないし、そういった評価を主眼に文章を書いたことはない。

リヴェット『アウトワン』をめぐるやや無謀な考察(初見で各エピソードを見ながらその日のうちに見たエピソードの感想を書くということを十日間続けた)も、リヴェットのこの作品ならやってみる価値があるという確信に基づいていた。事前にわたしが知っていたのは、『アウトワン』が完成されたシナリオなしに、俳優の即興によって撮られたということ、またこの作品が演劇と映画という様式の衝突をめぐるリヴェットの長い探究の端緒だということだった――つまり、様式の混合から生まれてくるものを観察するというわたしの関心にはうってつけの対象だった。

フレデリック・ワイズマンをめぐる考察は、このブログにしては珍しく整理されているように見えるかもしれない。しかし、あれもツイッターでの十二日間にわたる迷惑きわまりない連投の結果に過ぎない。シネマヴェーラでの特集の前半、わたしは毎日欠かさず映画館に通って上映された全作品の感想を見た順番に書いていたのである。もちろんワイズマンに対するこういうしつこい絡みの理由も、彼の作品がひとつのジャンルに収まらないという点にある。そして、既存のジャンルを壊しながら固有の様式を作り上げていくさまを観察するためには、こちらもなりふりなど構っていられない。

こういう次第で、このブログにもそれなりの一貫した関心と方法がある。もしここに収められたエントリーのいくつかにでも注意を向けてお読みくださったかたがおられるなら、以上のような関心の未熟な結果と受け止めていただき、今後ともご指導ご鞭撻のほどを。スパムメールを避けるため、コメントは投稿から二週間以内に限って受けつけているが、著者紹介のページにはメールアドレスも載せてある。

 

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