『春の劇』から『家族の灯り』へ

オリヴェイラのすごさばかり考えて過ごしている。

『家路』(原題 “Je rentre à la maison”)の日本語字幕付きDVDに収録されているインタビューの中で、オリヴェイラは少なくとも二つのことを語っている。第一に、「うちに帰る!」と言う人間の傾向について、第二に、それを許さない現代文明のあり方について。“Je rentre à la maison” という呟き、ないし宣言はオリヴェイラ作品の一つの核心であり、90年代以降の彼の多くの映画には、おうちに帰ろうとする個人の試みとこれを妨げる状況の両方が描かれているように思われる。

たとえば『家族の灯り』の放蕩息子が8年ぶりに帰った自宅で目にするのは、彼が犯罪者だという事実を直視せずに、いつもの退屈な生活習慣を押し通そうとする両親と妻の態度である。老いた父親と妻は、母親には息子の前科を隠して、何事もなかったかのように彼を迎えようとする。こうした家族の態度に接して、放蕩息子はこの家に帰る価値はないと断定し、老いた父親が預かっていた会社の金を奪って再び出奔する。

この行為に対する父親の応答は、自分が息子の盗みの罪を被ることであった。ここに至って家族はついにめそめそ泣くのを止め、自分たちの置かれている状況に対峙し、強盗犯である息子の生き方に見合った家族の形態を選択する。レナート・ベルタのカメラが一貫して構築してきた彼らの輝かしい空間は、この父親の選択を通じてその真価をあらわにするーーこの家は家族が帰って来るに相応しい場所になる。

前述のインタビューで、オリヴェイラは明確に『家路』を悲劇だと述べている。主人公の老優(ミシェル・ピコリ)は、映画『ユリシーズ』の撮影中、自分が演じるバック・マリガンの台詞につまり、「俺はうちに帰る」と呟いて撮影現場を後にしてしまう。映画のメイクと扮装のまま街を歩いて英語の台詞を反芻し続け、バーではマリガンの言葉通りにビールとウィスキーとワインを注文しそうになるピコリの姿は、一見喜劇的だ。しかし、家に帰って来たおじいちゃんのおかしな後ろ姿を見送るラストショットの孫の表情には、戸惑いと悲しみが現れている。

仕事を投げ出して「おうちに帰る」という行為は社会的な義務の放擲であり、幼児的な退行とみなされる(オリヴェイラはこういうふるまいを子宮回帰願望の現われと呼んでいる)。しかし、だれだって疲れたり行き詰まったりした時にはうちに帰って休みたいと感じる。あるいはそうすることができる場所を必要としている。こんな当たり前のことができない現代人の状況を指して、オリヴェイラは悲劇と言うのである。

中期の偉大な作品『春の劇』は、ポルトガルの寒村に伝わるキリストの受難劇を、その伝統に従いつつ、ドキュメンタリーではなくフィクションとして再構成した映画である。そのイントロダクションもまた、受難劇の準備を始める村人たちの日常の中に劇が入り込んでくるさまを「演出」しており、ドキュメンタリーのように見えるがそうではない。その中に痩せた大地に鍬を入れる村人の映像が出てくる。その姿にわたしたちは、仕事に精を出すことと家に帰ることとの明確な結びつきを見出す。大地に鍬を入れる時、農夫は家に帰っているからである。

『春の劇』の「俳優」たちは、台詞につまろうが演技に失敗しようが、そんなことはおかまいなしに芝居を続けることができる。だれに見せるわけでもなく、自分たちの村、すなわち家に居ながらにして、昔から伝えられてきたイエスの物語を繰り返しているだけなのだから。彼らの「演技」は大地に鍬を入れることと同じなのである。

『アンジェリカの微笑み』の農夫たちは、この意味で『春の劇』の村人たちの姿を反復している。たしかに『アンジェリカ』の農夫たちにはリーダーがいて、彼の歌と時計とが仕事の配分を決めているけれども、それもあくまで葡萄を育てる約束のためだ。彼らの一人が途中で帰宅しても、そんなことはたいした問題にはならない。イエスの、あるいは『アンジェリカ』のイザクの「帰宅」(=帰天)が嘉されるのとそれは同様である。

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