マノエル・ド・オリヴェイラの編集

時々映画は100分程度の時間で個人や国家の歴史を描き出そうとする。土台無茶な試みなので、その作品が活用するマジックが観客をどこまで幻惑できるかが、ことの成否を分ける。

オリヴェイラ『ノン、あるいは支配の空しい栄光』では、旧植民地の内戦に介入したポルトガル軍兵士が、軍用トラックでの移動や野営など、長い無為の時をやり過ごすために、平時なら話題にしない祖国の戦争の歴史を語る。オリヴェイラ作品の多くはリアリズムを徹底した怜悧なショット群と、対照的にあざといセットや照明に彩られたサーカス小屋ないしキャバレーのような三文芝居風ショット群の巧みな交替によって構成されている(一方から他方への移行に切れ目がない)が、『ノン』では兵士たちの現在時が前者、彼らによって回想=再構成される過去のできごとが後者である。王国が過去に経験した空しい戦の顛末は、先の見えないゲリラとの闘いで疲弊した現在の兵士たちによって演じられる。国家という仕組みを通じて人間が行なうもっとも愚かで悲惨な所業が、たんなる過去の逸話としてではなく、同じ人間の行為として示され、語られ思い起こされた戦争の歴史はそのまま凄惨な対ゲリラ戦と兵士たちの死の描写に繋がれる。ドキュメンタリー風の戦争映画でもおとぎ話風の歴史映画でもなく、愚劣さと戦争の歴史を時間の圧縮と折り重ねを通じて提示する試みだ。この手法は村人たちが演じるキリスト受難劇を再構成し、過去でも現在でもない映画の固有の時間の中に捉えて見せた『春の劇』の方法と同一である。『春の劇』ではイエスを捕縛し、ピラトの調停を頑強に拒む兵士たちのショットの間に、ベトナム戦争の実写映像が挟まれている。

数百年から数千年の時を100分に圧縮する試みに比べればスケールが小さいとはいえ、『クレーヴの奥方』や『ファウスト』のモチーフを借りて映画を制作するオリヴェイラの時間の扱いも見事である。『クレーヴの奥方(原題『手紙』)』では、カトリーヌ(キアラ・マストロヤンニ)、アブルニョーザ、クレーヴ三者の関係の説明的な描写は極力排除され、必要なら字幕で簡潔に語られる。代わりにアブルニョーザは彼のライブ・パフォーマンスによって紹介され、カトリーヌとクレーヴの出会いはたまたま同じ夜に開かれたマリア・ジョアン・ピレシュのコンサートの場面で描かれる。どちらのシークエンスも音楽と映像が主体で、物語は置き去りにされている。三角関係がどのように生まれ、どう発展するかといった筋書きにはこの映画はまったく無関心である。同様に、カトリーヌが姿を隠してからラストに至る物語は、親友の修道女(レオノール・シルヴェイラ)に宛てたカトリーヌの手紙と、アブルニョーザの愛と死の歌のみで示される。シルヴェイラの朗読とアブルニョーザの歌それぞれの長回しは、映画の中に流れる時間の輻輳(折り重なった多層性)をよく表現している――キアラ・マストロヤンニの映像はいっさい映らないが、シルヴェイラとアブルニョーザの声を通して彼女の生きたイメージが複数化される。

『ファウストの誘い(原題『修道院』)』の大胆な原作(ゲーテ『ファウスト』)の圧縮ぶりはちょっと類を見ない。原作では第二部に登場するトロイのヘレンが最初からファウストの伴侶である。彼(ジョン・マルコヴィッチ)が妻ヘレン(カトリーヌ・ドヌーヴ)とともに古文書探索に訪れた修道院の、若く美しい女性司書(レオノール・シルヴェイラ)にはマルガレーテの面影がある。修道院の管理者(ルイス・ミゲル・シントラが怪演している)はマルコヴィッチがシルヴェイラに誘惑されるように仕向けるが、反対にシルヴェイラによって地獄に落とされ、マルコヴィッチはヘレンと寄り添って修道院を後にする。これだけ書くと何とも荒唐無稽だが、映画はさらに荒唐無稽である。とりわけラスト近く海からヘレンが現れるショットに、わたしは度肝を抜かれた。ゲーテが数十年かけた探究の成果のいいところだけすっぱりさらっているのである。こんなことが許されるのはオリヴェイラの映画だけだろう。いま論じている時間の圧縮という主題からは離れるが、夕暮れから深夜の修道院内のショット群は、きわめて乏しい照明で撮られており、市販されているソフトの画質がそのニュアンスを捉えるのは難しい。ぜひ何度でも劇場公開されるべき傑作である。

リアルな設定の中に演劇やライブを持ち込んだり、著名な文学作品のモチーフを活用したりする時以外でも、オリヴェイラの時間の扱いは特異である。『家宝(原題『不確定性原理』)』では、物語が展開する二つの主要な場所(一方はポルト、他方はドウロ川を遡った地方都市)の間を往復する電車の窓(とそこから見る風景)のショットが執拗に繰り返される。オリヴェイラ作品において、彫像、建物、町角や庭先の景色、街の全景を捉えたロングショットなどの反復はいつものことだが、『家宝』の列車の往復は不思議である(シナリオ上はイザベル・ルトまたはレオノール・バルダックがポルトに住む有力者に相談を持ち込むための移動)。ただひとつ言えるのは、こうした列車のショットが入るたびに映画内では何か大きな変化が起ころうとしているのであり、それは『クレーヴの奥方』のように字幕で簡潔に説明できないということである。『家宝』においてさらに大胆な編集が見られるのは、ルイス・ミゲル・シントラ演じるダニエルの死を描く時だろう。レオノール・バルダックが夫と愛人に侮辱され、ひとりイタリアから帰った直後にダニエルを訪れる(黒真珠の場面)と、彼はたちの悪い咳をしている。次のショットはお葬式の場面なのだが、死んだのはダニエルではなく叔母であることが参列者の会話からすぐ明らかになる。見ているこちらがなあーんだと思っていると、続く彼らの一人からダニエルも少し前に死んだことが告げられる。おいおいオリヴェイラ。

本稿が取り上げた時間の扱いは、作品の素材や、(おおざっぱな意味での)ジャンルの違いにかかわらず、多かれ少なかれオリヴェイラ映画を特徴づけるものである。彼の作品は展開が唐突で、見ていてどこへ連れ去られるかわからない。それがオリヴェイラの大きな魅力だが、しかしそこには一貫した方法がある。世のオリヴェイラ評の紋切り型のひとつに、一作ごとにがらりと相貌を変える、というのがあるが、それは必ずしも正しくない。

 

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