(『最前線物語』)

わたしにとってサミュエル・フラーを見るとは編集を見ることだから、たとえ『最前線物語』のような傑作であっても、監督本人の編集を一部しか見ることができないフィルムはかっこに入れざるを得ない。こんなに残念なことはない。

リコンストラクション・ヴァージョンは、自伝でフラーが言及している、ディレクターズ・カットから削除されてしまった箇所(戦車の周囲を馬でぐるぐる駆け回るアラブ人兵士たちのショットなど)を含む点でたしかに貴重である。それでも4時間半のディレクターズ・カットに比べれば影みたいなものだ。本作品のディレクターズ・カットは、膨大な撮影素材からフラーが苦心の末に彫琢した作品である。ところが配給サイドはこれを長すぎると言って切り刻んでしまった。リコンストラクション・ヴァージョンはフラー亡き後クリスタ・ラングらも監修に参加して制作された(自伝の出版と同じ2002年)が、この時点でディレクターズ・カットを再現できなかったということは、フラーの編集を正確に再現する術がなかったということだろう。

ロージーの『エヴァ』やオフュルスの『ローラ・モンテス』も同様の経緯で切り刻まれて公開されたが、幸いオリジナル素材が散逸していなかった後者は、半世紀近く経ってほぼ完全に近いかたちでディジタル修復された。ただオフュルスのこの作品は長回しを中心に構成されているため、素材さえ見つかればシナリオからの修復が比較的容易である。しかもオフュルスの編集を記憶していた撮影監督が修復に参加したことも、このプロジェクトを成功に導いた大きな理由であった。

これに比べてフラー作品はしばしば短いショットをリズミカルに繋ぐ上、ちょうどクラシック音楽の各楽章が異なるテンポを持つように、場面の性格によってモンタージュのテンポを変える。特に『最前線物語』は長尺であり、かつ複数のまったく性格を異にする地域・季節・舞台を含んで成り立つ複雑な構成体である。冒頭とラストの「戦争は終わった」の呼応、二度の大戦の舞台となったフランスの村の十字架の再現、戦闘の合間にリー・マーヴィンのチームが見せる息の合ったバカ騒ぎの反復などに見られる通り、フラーは4時間半の長尺においてさえ、いつもの考え抜かれた編集を忘れていない。あの映像の密度に監督が表現した通りのモンタージュが重なれば、まさに至高の作品になるはずなのである。ところが、だからこそこれを監督が立ち会うことなしに、正確に再現するのは至難の業だ。

縁起でもない、何を悲観的なことばかり書いているのだ、と怒られるかたも多いだろう。わたしとて本作のディレクターズ・カットが出ないのはたんに権利関係がクリアされていないからであり、オリジナル版はきちんとしかるべき場所に保存されていると信じている。再上映やソフト化は至難と言われてきたあの『クーリンチェ少年殺人事件』でさえ、ついにCriterion版が出るではないか。

というわけで、わたしはこのエントリーのタイトルからかっこを外すことができる日が近いうちに訪れることを心待ちにしている。

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