『夜の緋牡丹』と島崎雪子

島崎雪子といえば、『めし』に出てくる、二十歳のおさわがせ家出娘である。上原謙の姪という設定で、美しい妻(原節子)を持つ彼を慕っている。しかし、この映画の島崎が原に対抗できる武器は、若さと活発な無邪気さだけ。株屋でありながら堅実で、自身はいっさい株に手を出さない上原と、長屋で質素な暮らしをしている原は、単調な生活に疲れていてもやはり美しい。

その原節子が、同窓会でたまの外出を楽しんで帰宅すると、買ったばかりの靴を盗まれたといって、玄関先で夫が呆然としている。二階は家出してきた島崎が占領していて、台所と居間しかない一階にいた上原が、どうしてコソ泥に気づかなかったのか不審に思った原は、あなたいったい何をしていらっしゃったのと問いかける。二人とも二階にいたんだと答える上原。色をなして原が二階に上ると、島崎はごろんと横になったまま、おかえりなさい、(わたし)鼻血が出たの、と言う。

原節子は知るよしもないが、鼻血が出た理由はこうだ――島崎は留守番の間に退屈して夕刻までくーくー寝てしまい、結果として約束の食事当番をさぼっていたのだが、そこへ帰って来た上原に起こされると、甘えてだだっこのように両腕を伸ばし、起き上がらせてと頼んで引っ張りあいをしたのである。実はこの映画は、監督する予定だった千葉泰樹が降板し、代わって成瀬巳喜男が撮った作品だ。この鼻血のシークエンスでも、脚本から実際の絵を起こして撮影・編集する際に、例の成瀬マジックが炸裂している。この時期の島崎雪子にはたしかに独特のなまめかしさがあるが、上原謙と引っ張りっこをしたはずみで二人が抱き合った瞬間、「あ、鼻血」と島崎がうろたえる箇所など、千葉が撮っていたらああはならなかっただろう。上の絵に見られる少し挑発的な彼女の表情(原節子に向かってその態度は何だ)もなかなかよい。

この場面よりも前、家出して前触れもなく転がり込んできた島崎の顔を数年ぶりに見た上原が、なるほど美人になった、と本心ともお愛想ともつかぬことをいう箇所の切り返し、島崎のあっかんべーを鑑賞しておこう。

さて本題である。いまシネマヴェーラでは千葉泰樹の特集上映が行われており、わたしはAkatukiyami さんのお薦めに従って、昨日『妻と女記者』、『夜の緋牡丹』の二作品を見た。『夜の緋牡丹』は島崎雪子の初主演作である(もう一人のヒロインは月丘夢路)。島崎が演じるのは天涯孤独の、少し頭の足りない純情な芸者だ。彼女には他に何の芸もないので、ポータブルのレコードプレーヤーから流れる「東京の花売り娘」に合わせ、ビキニで踊ってすけべな客(映画の観客を含む)を喜ばせたりしている。

どこかで見たような女優さんだと思って、後でAkatukiyami さんに聞いてみたら、『めし』の「鼻血」だと教えてくれた。ところで彼女は、いまのダンスシーンでもそのキュートな姿態を披露した後であっかんべーをする(この夜の客が特にしけた奴だからである)。この時代の日本映画にはあっかんべーをする娘が時々出てくるが、島崎雪子の場合は、『夜の緋牡丹』から『めし』へとこの特異な表情・しぐさを引き継ぐわけだ。

『夜の緋牡丹』にはいろいろ見どころがある。特にラストのクロスカッティングとその結末は非常におもしろいが、この点についてはネタバレを控えたい。その代り、島崎雪子をめぐる演出に話をしぼろうと思う。

冒頭のタイトルで目を引くのは、撮影監督とは別にクレジットされる「合成撮影 天羽四郎」の文字である。新東宝作品でなおかつ合成撮影などと書いてあると、何となくいやな予感がする。実は本作の「合成撮影」はすべて他ならぬ島崎雪子のための技術である。

彼女は冒頭の場面に出てくるすかんぴんの若い酔客(伊豆肇)に惚れ、おしかけ女房として居座ってしまう。小説家志望の伊豆は、最初のうちこそ彼女の身の上に同情し、またその愛らしさに惹かれて鼻の下を伸ばしているが、まるで頭の中がからっぽの彼女とはやっていけないことにすぐ気づく。別れ話を切り出す男に対して島崎がやってみせるのは、なんと空中ブランコである(彼女の母はサーカスの芸人で、彼女もサーカス小屋で育った)。どうして空中ブランコが別れ話に対する回答になるのかといえば、どうやらこういうことらしい――いまは天井から逆さにぶらさがっているけど、むりに別れようとすると、あたいは首をつって死んじゃうわよ(大意)。彼女の空中ブランコは、むさくるしく狭い二階の下宿で行われることになっているのだが、そんな「設備」があるわけもないので、明らかに意味不明というか、不可能な設定である。

この映像をコンテクストなしに見たらホラーの一場面である。で、コンテクストありで見るとどうなるかといえば、単体で見る以上にホラーである。それだけではない。上の参考画像の雰囲気からもわかっていただけると思うが、男はこのアクロバティックな返答に気圧されたのか、天井からぶら下がった状態の彼女の逆さの唇にキスをするのである。映画史上類を見ないキスシーンだ。

要するにこういう感じで「合成撮影」が敢行されている。最初のタイトルを見る際のあのいやな予感はみごとに的中する。ただし予想もしない映像によって。

これで終わりかといえば、もちろんそんなことはない。「合成撮影」が全開になるのは、映画の中盤、田舎に引っ越した島崎と伊豆の、夏の遊びの場面においてである。ターザンのジャングル状の、天井から多くのツタ(島崎がブランコとして乗る)がプールの上に垂れさがった、なんとも形容しがたいセットを作り、滝の映像と合成して田舎の自然を演出している。しかしわたしは断言するが、このような環境は日本列島には存在しない。画面に向かって右手には岩場があり、島崎は左手のツタから岩まで空中ブランコ的に、あるいはターザン的に移動する。その上岩場から伊豆をツタに呼び寄せ、二人してそのまま水の中に転落したりする。いったい何のためにこのような場面が必要なんだ。

とはいえネタバレを封じた本編にはいろいろな見どころがあるし、ここで紹介した「合成撮影」そのものも、わたしには実に興味深い。千葉作品から成瀬作品への偶然のバトンが島崎雪子にもたらした機縁も発見であった。

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