『晩菊』

成瀬巳喜男『晩菊』は以前ソフト化されたが、今では海外版しか入手できない(注)。ダニエル・シュミット『書かれた顔』に引用された本作の数カットは不自然に暗い色調であり、現存するフィルムの状態が心配である。

神保町シアターの杉村春子特集でその『晩菊』が取り上げられたので、昨日見に行った。

巻と巻の継ぎ目などに数箇所コマ落ちがあるものの、35mmプリントの状態は比較的よく、たとえばラスト近くの上野駅構内のロングショット(雑踏の中、二人の元芸者が現役の若い芸者の艶やかな装いを見る、プラットフォーム階段下の映像。構内の暗がりと階段上から注ぐ淡い光の階調、老いた芸者のくすんだ着物と若い芸者の白いそれのコントラストがきわめて美しい)などは玉井正夫の優れた仕事を伝えている。音声(セリフ、音楽、効果音)も良好で、これならDVDに残されている画像と合わせて十分リマスター素材になる。こういうプリントが残っているうちにぜひリマスタリングしておくべきである。何といっても成瀬巳喜男と杉村春子の代表作の一つなのだから。

杉村演じる元芸者がヒロイン、他の人物もほとんど彼女の元朋輩だから、『残菊』というタイトルに相応しい絵になるが、かといってひたすら渋いわけではない。たとえば、金貸しと不動産投資でひと財産こしらえた杉村が、立派な自宅に女中として住まわせている気丈な聾唖者の少女(鏑木はるな)の描写の繊細さ。杉村はこの少女の人柄を買っており、出入りの不動産屋(加東大介)にそのことを告げる。帰り道、おつかいから戻ってきた少女に出会った加東は、即席の手話で杉村の気持ちを伝えてやろうとするーー「おかみさん」のしぐさと少女の頭をなでる手つきで、「おかみさんがあんたを褒めていたよ」というのだが、少女には何のことだかわからない。このショットでの、彼女の戸惑う表情がとてもよい。また昔のよしみで杉村を訪ねてくる上原謙の場面では、留守番をしているところにやってきた上原を、少女はあらかじめ杉村から預かっていた写真と照合してから家に上げる。こうした何でもないエピソードの一つ一つが成瀬の魔法で光彩を放つ。

雀荘でバイトするうちに客の一人から口説かれて電撃結婚してしまう有馬稲子とその母(望月優子)、他人の妾と付き合っているダメ息子とその母(細川ちか子)のエピソードもおもしろいし、望月と細川ができの悪い子どもの愚痴を肴(?)に酒を飲む場面、去って行こうとするそれぞれの子どもを思う寂しさをまぎらわすため、二人で一つの布団で寝る場面も「やるせなきお」だ。

注 2022年5月現在、DVD入手可能。画質・音質ともによい。

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