狂えるオルランド

いきなり100枚ほどのエントリーをアップして読者のみなさんを呆れさせてやろうかと思っていたのだが、堪え性がないわたしは、前のエントリーで結局ネタを小出しにしてしまった。

小出しにしたついでに少しヴィヴァルディの『狂えるオルランド』について書きたくなった。1727年の同作はこの作曲家を代表する傑作であり、聴くたびに唸らされる。アリアのみならずレチタティーヴォの数々が素晴らしく、とりわけ第二幕ラストの、オルランドの発狂を描写する表現は比類がない。おもしろいのはこの作品のオルランドがメゾソプラノであることだ。ヴィヴァルディは1714年に『狂気を装うオルランド』(リブレットはアリオスト作品の前編にあたるボイアルド『恋するオルランド』に基づく)と、『狂えるオルランド』の最初のヴァージョンを書いているが、二つの作品ともオルランドはバリトンである。アリオストの原作では、発狂したオルランドは全裸でさすらい、手当たり次第に動物と人を殺し、女を犯す。そもそもこの遍歴騎士(オルランドというのは『ローランの歌』の主人公ローランと同一キャラクター)は、武勇において当代随一と認められていたツワモノなので、メゾソプラノによって歌われることには無理がある。ではなぜヴィヴァルディは27年版でこんなことをやったのか。当時のオペラは初演時のキャストを想定して書かれることが多かったので、この事情が反映した可能性はある。しかしながらそれ以上に、第二幕と終幕のオルランドに割り当てられた歌詞と音楽とは、メゾソプラノに適しているようにわたしには思われる。第二幕ラストのレチタティーヴォについては、『オルランド』の狂気をめぐる18世紀の音楽の変遷を論じる際にくわしく書くが、これをバリトンが歌うと精神に変調をきたした感じが必ずしも出ない。たしかに第一幕の、恋に狂ってアンジェリカを探し求める場面までは、バリトンの方がリアルである。しかし、第二幕ラスト以降の「狂気」を表す音楽にはメゾソプラノがうってつけなのである。

たとえば第三幕、オルランドがあらぬことを語り出して周囲を呆れさせる場面では、「ラ・フォリア」の主題が引用される(この主題は作品1-12 のトリオソナタで取り上げられている。「フォリア」とはもちろん狂気のこと)。これを男役のメゾソプラノが歌うと、オルランドの狂気が禍々しく表現される。

ヴィヴァルディがこうした効果をどこまで計算していたのか知らないが、本作の研ぎ澄まされた表現を踏まえると、キャストの問題以上に音楽的な効果を求めたものと考えるべきではないか。

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