大魔神五十周年

今年は映画『大魔神』シリーズ製作から50年目にあたる(シリーズ3作品とも1966年)。第1作は当たるかどうかの目算もなく発表されたのだろうが、時代劇と特撮を合わせた作りは今見てもかなりおもしろい。ここでの魔神は、これを拝む人たちの思いとはほぼ無関係に行動する(魔神礼拝の巫女がさっさと敵の手で殺され、本来真っ先に救われそうな善玉が魔神の手によってぞんざいに投げ飛ばされる)。放って置いたらこの先何をしでかすかわからない魔神の怒りを鎮めるのは乙女の清らかな涙だ。

第2作の監督は三隅研次で、第1作に比べると時代劇としての演出が格段にていねいになる。しかし、魔神が出てくる前後の話の作りは、第1作以上に善玉の都合に寄り添っており、「人間的」な演出になっている。

第3作はこれから見るが、森一生監督作品である。ニヒリスティックな演出を期待する(典型的な「後の祭りの祈り」)。

ところで伊福部昭による魔神の主題、一聴してどこかで聞いたと思った。ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』のフーガの主題に酷似している。こういうことをやられると、今後『詩篇交響曲』を聴くたびに大魔神の姿を思い出す可能性が高まる。とても困る。

【参考】 ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』第2楽章

【追記】 森一生のフィルムは、茫漠とした空間の描写とリリカルな語り口の組合せに魅力があるとわたしは思う。『大魔神逆襲』では、吹雪に埋まる谷を行く子どもと彼らを導く使いの鷹の描写にこの監督の持ち味が発揮されている。美しい作品である。特にニヒリスティックではなかったし、大魔神も素直に子どものお願いを聞き入れていた。

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