ヴィヴァルディの算術的サディスム

『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』は愛読書のひとつである。残念ながら、わたしに性的加虐嗜好も肛門愛好癖もないけれど、言語表現におけるサドの豊穣な算術的構成を偏愛しているため、この意味でわたしはサディストである。私見では、この作家の資質に匹敵する算術的構想力を備えた日本の表現者は幾原邦彦氏であり、『ソドム』を映像化するとしたら彼しか考えられない。

西欧文学の固着的といってよい特質は世界構築にあり、『神曲』にせよ『ユリシーズ』にせよ、比喩ではなく周到に設計された建築物である。『ソドム』の中にも巨大な「世界」が立ち現れるが、そのデザインの主要な特徴は周到さや緻密さにでなく、フィボナッチ数列の展開のように豊かで、かつ単調な構成にある。城に閉じ込められた者たちに強制されたいくつかの残酷な原則に従って繰り広げられる陵辱と拷問の世界は、単純な漸化式が作り出す豊穣な数列にたとえられる。とはいえ『ソドム』の際限ない性的凌辱の描写は、読むほどに読者を退屈させ、『神曲』や『ユリシーズ』がもたらす崇高とはまったく異質の、人が住むのに全然適さない別種の惑星に強制移住させられるような感興を与える。こういう言語表現と作品構成はわたしの知る限りサドにしかない。

わたしはヴィヴァルディの仕事を、音楽における(いま述べたような意味での)サディスムという観点から評価することを推奨したい。彼のメロディ・和声・構成はすかすかであり、時としてずぼらであるから、聴き込むほどに飽きがくる。彼の作品は当時の音楽のルールを踏み越えはしない。ただその原則から生じるもののヴァラエティをこれでもかというほど追求する。だから、彼の音楽は聴いても聴いても絶対に終わらない執拗さを備え、どこまでも延長する謎の音列は、れっきとした世界を構築する――ここもまた人が住むのに適さない惑星であるが。

 

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