『フィラデルフィア物語』(キューカー、1940)

ジョージ・キューカー『フィラデルフィア物語』(1940)は物凄い作品だ。何度でもその凄さを語るべきなので、あえて書く。

わたしは最近、シネマ・ヴェーラの上映で見直した(7/6)。主題は、月の女神アルテミス、階級、マスメディアの覗き趣味(およびそれを支持する大衆)、ファザー・コンプレックス(アルテミスの、父ゼウスに対するそれをモデルとしている)、愛することと愛されること、バツイチなど多岐にわたり、これらだけでもう十分楽しめる。だがその上に、「洗練」という語がたぶんふさわしい練り上げられた脚本(特に個々の台詞の含蓄とダイアローグの妙)、素晴らしく繊細なカメラワークと編集、そして音楽がある。ハリウッドの30-40年代を代表する作品だ。しかし、そんなことよりキャサリン・ヘップバーンの演技と、これを引き出すキューカーの演出が凄い。

すべてを語ることなど到底不可能なので、物語の中盤、プールサイドのシークエンスに的を絞って、本作の魅力を論じてみたい。

この時代のハリウッド作品の様式のひとつに、ハワード・ホークスのスクリューボール・コメディに代表される速射砲のような台詞回しがある。『フィラデルフィア物語』はこのジャンルから一線を画す作品だが、台詞のボリュームに関してはそれと同等かそれ以上である。ボリュームだけではない。中身が充実していて詩的だ。

たとえばトレイシーを月の女神アルテミスに擬したデクスターの次の台詞(下記の場面4。なお、シャンパーニュに酔って記憶をなくすというこの出来事は、少し設定を変えて映画の後半で再現される)。

You did without knowing it. Oh, and the night that you got drunk on champagne and climbed out on the roof and stood there, NAKED, with your arms out to the moon, wailing like a banshee…

注意を要するのは、本作のプロデューサーがマンキーウィッツだということである。当然この時代のハリウッドに見られる精神分析趣味が現れる。キューカー自身そういう描写に肩入れはしている。しかし、できあがった作品はそんなレベルをはるかに超え出てしまった。

登場人物を紹介しておく。

トレイシー(以下T) キャサリン・ヘップバーン。フィラデルフィアの富豪の長女。バツイチ。完全主義のアルテミス(処女女神)として男たちの崇拝の対象となっている。しかしこのように見られることは彼女の本意ではなく、愛されることを望んでいる。なお作中で「スパイ」誌編集長はトレイシーについて「アフリカでは大物を狩り、フィラデルフィアでは狐を狩る」と評し、また彼女が乗馬に出かける場面もある--これらも狩猟の女神アルテミスを想定した設定である。

デクスター(以下D) ケーリー・グラント。トレイシーの元夫。トレイシーの理解者だが、彼女の完璧な美と冷酷さに打ちのめされ、酒浸りとなる。結果、離婚されてしまった。上流階級に属し、ヨットのデザインを趣味とする。

マイク(以下M) ジェームス・スチュアート。作家。生活の必要上、上流階級の生活とスキャンダルを覗き見する雑誌「スパイ」の記者をやっている。だが、この仕事を嫌悪している。

ジョージ(以下G) ジョン・ハワード。トレイシーの婚約者(第二の夫候補)。労働者階級出身。彼もまたトレイシーを崇拝する男のひとりであり、本当に彼女を愛してはいない。

プールサイドのシークエンスはざっとこんな感じだ。

何が素晴らしいかといって、わたしたちは一度聞いただけではついていけないほど練り上げられた台詞に集中しながら、男を理解せず、また男からも理解されないキャサリン・ヘップバーンが、男たちの言葉に打ちのめされていくさまと、これに並行して描写される彼女の着替え(白いローブは処女女神アルテミスのアトリビュート)を目撃できることである。耳を澄まして台詞を聞かなければならないが、同時にこの世のものとは思えない美しい女優の表情と行動(とりわけ彼女が衣服を脱いだり替えたりする様子と、水着になってプールに飛び込む姿)を見ることができるのだ。これは映画にしかできない表現である。

月の女神がこの世に転生するさまを描いた最高の作品である。

【付記】 ヴェーラで見た映像があまりに素晴らしかったため、国内で販売されている本作のDVDについ手を出してしまった。これは最悪の商品である。映像も音声も台無し(冒頭、MGMのロゴが出ず、音楽も途中から入る)。字幕も最低で、たとえばトレイシーがデクスターと新婚旅行に出かけたヨット True Love についてのトレイシーの台詞「彼女はYar だった」が訳されていない(ヴェーラの字幕はこれをきちんと反映して「イエア」としていた)。この台詞はラストで重要な意味を持つので、字幕がダメだと本作の鑑賞にとって致命的だ。間違ってもこのDVDを見て本作を評価しないでほしい。

 

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