「聖地」(1)

西暦二一一六年六月、コードネームあざらしは半世紀ぶりに覚醒した。
タイムカプセルの目覚まし時計は指定通りに作動した。少しずつ戻ってくる記憶の糸をたぐりよせながら、「すると事故もなく、宇宙に捨てられもせず、おれはこの世に戻ってきたんだな」という意味のことを彼は思った。問題は、外の世界がどうなっているかだ。
地球科学者たちの予測によれば、そろそろ寒冷化が始まって、二一世紀に比べればこの星の気候も快適になっているはずである。日本列島を襲う予定の複数の大規模地震も終息した頃だ。
前の世紀の半ばには人類はほとんど生殖を止め、人口も激減しつつあった。オタクの進化の最終形態は半永眠の多様性を追求する就寝系で、彼らこそ半世紀から数世紀後に眠りから覚め、その時には地球上にほとんど姿が見られなくなっている人類の、次の世代を牽引するものと見られていた。
もちろんこれはパラドキシカルな考え方である。人類の中でもっとも早くから生殖を止め、無為の極致である睡眠のみを生きるよすがにしたのはオタクたちだったのだから。彼らがタイムカプセルから出てきたところで人類の歴史が延長されようはずもない。就寝オタクは寝て起きて起きて寝るという怠惰な反復を十世紀程度は行なうだろう。しかしそのうちに制御システムが故障してしまう。睡眠を選択しなかった地上のオタクなり、覚醒時の就寝オタクなりが何らかのソリューションを開発すれば話は別であるが、オタクの睡眠への強力な意志は死の本能の発現にほかならないので、これは空しい期待である。
――ごきげんよう。
聞き覚えのある声がした。不寝番の黒猫が尻尾をくねらせながらあざらしを見ている。タイムカプセルの中には、何世紀でも退屈することなく主人のあざらしとかつて彼を生み出した世界とを見守り続ける忠実な猫が三匹飼われている。あざらしは早速黒猫に質問した。
――おはよう。外の世界はどうなっている?
――地球そのものに大きな変化はないですね。地磁気逆転もまだ起きていませんし、寒冷化の始まりといってもごくゆっくりとした平均気温の変化しかありません。ごらんの通り小惑星もぶつかってはいませんし、タイムカプセルの維持に影響するほどの地震もありませんでした――そういえば過去の概念で言うところの東南海地震がありましたけど、新東京から四国にかけて、まったく被害はなかったです。地震で破壊される人工物がないんですから。ただ、あざらしさんがお休みになってから、人類の平和ボケはますます亢進し、食べることも戦うこともみんなほとんど止めてしまいました。就寝オタクさえいなければ――失礼――人類は絶滅の一途をたどり、近いうちに地球も平和を獲得したはずです。外に出てごらんになればわかりますが、まるで広大なラピュタですね。原生林の中を花売りロボットがぶらぶら散歩し、時々タイムカプセルから出てくるオタクのみなさんと挨拶を交わしています。森に埋もれた外観がアンコールワットみたいに見えるタイムカプセルもあって、なかなか素敵な眺めですよ。
――このあたりも森に戻ったの?
――あざらしさんのお言いつけ通り、外の敷地の周辺は庭師ロボットたちが手入れをしているので、なんとか五十年前のままですが、道路は使いものになりません。カエルム(小型ティルトローター機)を使わなければ、移動はできませんよ。
――オタクネットはどう?
――覚醒時にタイムカプセルからアクセスする人たちと、睡眠時の夢を交換する人たちとで散発的ににぎわっています。ログは膨大なので、その中からあざらしさんがおもしろがりそうなのをみつくろっておきました。
――浦島太郎になることは免れたわけだ。
――そりゃそうですよ。人類の大半が浦島太郎になったんですから。
――総人口はどれくらいなのかな。タイムカプセルにいる連中を含めて。
――地上に残って遊んでいるのが一億三千七百六十五万六千八百九十五人で、タイムカプセル人口が三億二千五百六十万五千五百飛んで三人です。
――何だ、まだ四億六千万人もいるのか。
――でも地上の人たちもセックスはもっぱらロボット相手にして、生殖は止めてしまいましたから、新たに生まれてくる人間はほとんどいません。そうは言っても自然主義者でない地上派はまだまだ何世紀も生きるでしょう――彼らの実年齢はたいてい百歳を超えていますが、半分機械の体になっているので。
――おれは今年で何歳になるんだっけ?
――虚年齢で言うと今年で八十七におなりですが、実年齢つまり覚醒期間は約三十七年です。
――八十七歳ねえ。
――出家(注)して、タイムカプセルでのんべんだらりと――失礼――暮らしているみなさんは、いつまでこれを続ければ気が済むんでしょう。私たちにだって永久に管理し続けるのは困難ですよ。

注 タイムカプセルで就寝すること。仏教的または新興宗教的な意味はいっさいない。

――だれかが覚醒中に新しいメカニズムを提案して、オタクネットで数百年かけて気長に開発を進めていけば、もしかすると何らかの方法が見つかるかもしれない。そういう方法が見つからない時は適当に永眠するだけだよ。本気で半永久的睡眠を追求するオタクなんていないはずだ。
――でもネットの会話で「おれは神になるんだ」と言ってバカにされている人がいましたよ。
――そういう発言を繰り返していると強制終了されるはずなんだけど、まだ存命なの?
――あんまりバカにされたせいか、今は眠っています。
――もう起きてこないでほしいね。
黒猫はあざらしの生体機能のチェックを完了した。
――どうです、そろそろ起きてみては。
「よっこらしょ」と言ってベッドを抜け出すと、白猫と三毛猫がチューブを片付けてくれる。黒猫の案内でシャワールームに行き、さっぱりしてから久しぶりに衣服を身に着けた。

タイムカプセルを出ると、自宅の敷地のまわりには見事な原生林が広がっていた。かつて敷地に沿って走っていた道路はほとんど木々に覆われているが、これとは対照的に、庭師ロボットたちの丹精によって敷地内の庭はよく管理されているので、まるで二十世紀の推理小説に登場するイギリスの田舎の景色のようである。
――いいなー。こういう風景に憧れてたんだ。
あざらしはライフネットとの接続に異常がないことを確認すると、地上に残っている知り合いとの接触を試みた。
予想通り大半が死去していた。あざらしの周囲にはタイムカプセルも機械の体も選択しない、いわゆる自然主義者が多かったのである。
――この点では浦島だな。
あざらしは少し感慨にふけった。すると可愛い航空艇が飛んできて、あざらしの庭に着地した。トゥルーラヴである。キリコが駆け寄ってくる。とっくの昔にミサトは死んで、キリコは解放ロボットになった。人類全体の管理を手伝いながら、彼女は自由意志で暮らしている。こういった事情は彼女と言葉を交わすまでもなくライフネットを通して把握できる。
――あざらしさーん、おはよう。久しぶりね。
――キリコさん、相変わらずきれいだね。
――やだー、あざらしさんったら相変わらずお口がおじょうずね。
――そんなことないよ、ぼくは正直者ですから。ミサトさんのことは残念だったね。
――ミサトの家なら森の向こうにそのまま保存してあるわよ。行ってみる?
――いや、他人の記憶に勝手に立ち入るのは止めておくよ。ぼくが眠ってからのミサトさんの様子は、キリコさんを通じて見せてもらえばいいしね。
――うん。その気になったらいつでも言ってね。彼女は素敵なおばあちゃんになって、大往生したの。人生を楽しんだと言っていいわ。
――そういう生き方がいちばん幸せかもしれないね。
――そうね。わたしにはこればかりは理解しようがないけど。ねえあざらしさん、これから聖地に行ってみない?
――いいね。聖地がどうなってるか、見てみたい。

カテゴリー: 小説   パーマリンク

「聖地」(1) への1件のコメント

  1. ピンバック: 「聖地」について | borujiaya