革命時代の三人のマリア

1809年、ナポレオンの侵攻を逃れてリスボンからリオデジャネイロに移った宮廷の人員は、一説によると女王マリア1世以下1万5千人である。オリヴェイラ『フランシスカ』には、少し後のブラジル独立戦争時代に、英軍に身を投じたポルトガル貴族のエピソードが出てくるが、09年の大がかりな遷都の際も、英国海軍がこれを支援した。敬虔女王と呼ばれたマリアは遷都の時すでに75歳であり、英国艦隊と一族郎党に守られてはいても、大西洋を渡る航海の不安がなかったはずはない。マリアはリオで没し、息子ジョアンもこの地でポルトガル王に即位する。ジョアンがブラジルを気に入って、なかなかポルトガルに帰国しなかったことは先のエントリーに書いた。

ここではすぐ後の時代の、二人の女性を紹介したい。ともにマリア1世の航海に匹敵する数奇な運命をたどった貴人である。ジョアンはものすごく子だくさんであるが、彼がリオで戴冠した時、王太子となったのは次男のペドロだった(長男は早逝した)。後にブラジル独立に際し皇帝となる人だ。ジョアンが即位した1816年、ペドロは18歳になった。少年時代からブラジルで暮らしてきた王太子にもお嫁さんが必要である。しかし、ブラジル宮廷の中に適当な女性はいない。そこで迎えられたのが、マリア・レオポルディナ。何とオーストリア皇帝フランツ1世とマリア・テレジア(女帝マリア・テレジアの孫)の間に生まれた大公女である。蝶や鉱物を好み、ポルトガル語を含む複数言語に長じた才女であった。彼女の姉マリー・ルイーズは皇帝ナポレオンの后となったので、マリア・レオポルディナも皇帝一家と親しく接した。ところが皮肉にも、ナポレオンの脅威を避けてはるばるブラジルに渡ったポルトガルの王太子ペドロとの間に結婚話が持ち上がる。彼女はウィーンの宮廷を離れ、ペドロが待つリオへ渡った。

女王マリア1世の航海とはまるで事情が異なるとはいえ、栄華を極めるウィーンから植民地の首都の宮廷に移る間には、彼女の胸中にいろんな思いが去来したはずだ。わたしはこういうことを考え始めると想像が止まらなくなるたちである。しかし先を急ごう。

レオポルディナはブラジルの人々に熱狂を持って迎えられた。ところが残念なことにペドロは夫としてけっして理想的な人物ではなかった。一説によれば粗暴でさえあったと言う。ポルトガル革命が起きて、父王ジョアンが帰国した後、王太子ペドロはブラジル摂政となるが、その権力はあくまで本国からの遠隔支配に従属する限定的なもので、ブラジルの有力者と軍部とがペドロに示す忠誠も敬意もたいしたことはなかった。

だがポルトガル本国によるブラジル劣後政策がこうした状況を動かし始めた。ブラジルの有力者たちが望むこの国の独立のためには、ペドロを王に据えるのが手っ取り早いからである。この頃ペドロは政治についてもレオポルディナの意見を容れることが多くなっていた。1822年9月、サンパウロで彼が民衆に呼びかけた決起のことばは「イピランガの叫び」として有名であるが、じつのところ彼は叫んだだけだった。これに先立ってブラジル国内の独立派勢力がペドロを決起の象徴として担ぎ出そうとしていたとき、「わたしはブラジル人の味方よ」と言って夫を焚きつけたのはレオポルディナだったからである。

かくしてペドロは初代ブラジル皇帝となり、レオポルディナは皇后となった。南アメリカの植民地に渡って摂政妃などという物の数にも入らない地位についてしまったら、そこからもう芽が出ないのがふつうだが、さすがは女帝マリア・テレジアのひ孫である。ちゃんと皇后の座に収まった。彼女はブラジルの内政にも関与したが、幸福は長く続かず、夫の浮気と暴力に苦しめられることとなり、1826年、死産の後に他界した。

浮気と暴力の果てに、国民の人気を集めていたレオポルディナを死へと追いやったペドロの後半生はパッとしなかった。ただし、彼にはレオポルディナとの間に生まれた娘がいた。後にマリア2世としてポルトガル女王となるこの娘は、あのマリア1世のひ孫である。ポルトガル王ジョアン(ペドロの父でいま話題にしているマリアの祖父)が没すると、王位継承権はペドロに回ってきたが、ブラジル皇帝の座にある彼は即位を辞退し、結果娘のマリアがポルトガルの王位継承者となった。しかし彼女はブラジル生まれブラジル育ちであり、ポルトガル本国の人々からすればぴんとこない。それでペドロの弟ミゲルが王位を僭称し、ペドロ派との間で内戦になってしまった。ペドロ自身も1831年に何十年ぶりかで帰国、内戦に勝利はするものの、その3年後にリスボンで死去した。

かくしてマリア2世も大西洋を渡り、見たこともない「母国」に女王として帰ることになる。当時の大西洋航海は数か月を要する危険なものだったことを想起していただきたい。彼女の曾祖母マリア1世も母マリア・レオポルディナもそうやって命がけの航海をしたのである。いまこれを書いているだけで小説を書いているような気分になる。海上帝国という名称はけっしてダテではない。3人のマリアが、帝国と革命に翻弄されじっさいに海を渡ったのだから。

 

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