「季刊フィルム」という雑誌についての記憶

「『芸術』の予言!!」(2009年、フィルムアート社)の巻頭に寄せられた四方田犬彦氏の「世界の迷路のなかで――序文にかえて」がおもしろいので(この本のおもしろさは序文に尽きるものではないけれども)、その冒頭を引用させていただく。この本は「60年代ラディカル・カルチュアの軌跡」と銘打ち、当時の「カルチュア」をまさに代表する前衛雑誌「季刊フィルム」と「芸術倶楽部」の記事を採録・再編集したアンソロジーだ。ツイッターの名高いアカウント某氏のポストを通じて知り、けっこう刺激を受けている。このブログでも昨年パゾリーニの「ポエジーとしての映画」を紹介したが、あの名論文の邦訳初出も「季刊フィルム」だった。今後も「『芸術』の予言!!」からいくつか記事を紹介させていただくことになるかもしれない。

《1968年という年は、地獄の釜が大きく開いて、これまで地下で沈黙を余儀なくされていた化生の者たちがいっせいに地上に出現し、跳梁跋扈を始めた年であった。
アメリカ軍による北ヴェトナム(原文ママ)が再開され、非暴力の平和運動を説き続けたキング牧師が暗殺された。それを契機としてアメリカ合衆国では、黒人解放のための闘争が先鋭化した。パレスチナでは若きアラファト議長が難民の先頭に立ち、イスラエルへの抵抗運動を組織した。パリでは5月に反ドゴールの一斉行動が生じ、この「革命」はたちまち世界に波及して学生運動に刺激を与えた。その背後には中国で2年前に開始された文化大革命への、暗黙の羨望と信頼があった。日本もまた例外ではなく、学生運動の嵐が吹き荒れた。ラディカルな学生たちは体制の破壊のみならず、それを叫ぶ主体の自己解体までを問う過激さに向かいつつあった。それと軌を一にするかのように、少なからぬ芸術家たちが既成の芸術の権威を拒否して、実験に向かった。だがその一方で、この国は壮大な好景気に見舞われ、「大きいことはいいことだ」というCMソングがTVで繰り返されていた。
わたしは15歳で、退屈な高校生活に飽き飽きしていた。そしてラジオから聴こえてくるビートルズの「ヘイ・ジュード」やサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」に夢中で、つげ義春や佐々木マキの漫画が掲載されている『ガロ』に読み耽っていた。大島渚の『絞死刑』やゴダールの『ヴェトナムから遠く離れて』、パゾリーニの『奇跡の丘』。わたしはこうしたフィルムを貪るように観て、強い衝撃を受けていた。とはいうものの、その後に何をしてよいのかがわからず、世界という巨大な疑問符の前に立ち止まっているばかりだった。
『季刊フィルム』の創刊号が刊行されたときのことは、よく記憶している。1968年10月に赤坂で「草月フィルム・アート・フェスティバル」が開催されたときのことで、表紙はゴダールの『中国女』から採られていた。アンヌ・ヴィアゼムスキー演じるパリの女子大生が、中国の青い人民服を着、三白眼をして真正面を向いている。彼女は誰か男の首を両手で摑んでいる。背後の赤い壁には革命に勝利する中国の労働者や民衆の姿が、漫画のように描かれている。わたしはただちに550円のこの雑誌を購入し、掲載されていた「ふたつの戦線の闘争をおこなう」というゴダールの最新インタビューに読み耽った。それはまさに表紙と連動しているように思われた。まだ日本での公開の予定も立っていない『中国女』の上映が、待ち遠しくてしかたがなかった。まるで、まだ充分に問題を考えついてもいないのに、いきなりすべての問題の解答がこの雑誌を通して与えられているかのようだった。それは文字通り、世界への期待そのものである雑誌だった。
表紙を担当していたのは粟津潔である。彼はこの雑誌のすべての号で表紙を担当し、さまざまな色調の赤を駆使して読者を挑発し続けた。彼が築き上げた世界にはすでに馴染みがあった。前年に講談社から刊行された大江健三郎の『万延元年のフットボール』の造本装丁が同じ人物であったためである。この時期、粟津潔のイラストやポスターは東京のいたるところに氾濫していた。『週刊アンポ』創刊号の表紙から天井桟敷やATGの映画のポスターまで、すべてが彼の手になるものであった。何十もの色彩の層を背景に日本の前近代の記号や意匠を意図的にコラージュし、権力の廃絶にむけて視覚を組織してゆこうとするその手法は、まさにこの時代の空気を体現していた。
この年の草月フィルムフェスティバルは、別の意味でもわたしに思い出深いものだった。麻布高校3年に在学していた原正孝(將人)が『おかしさに彩られた悲しみのバラード』という16ミリの短編で審査員全員の支持を得、グランプリを獲得したのである。彼は小学校でわたしの2級上で、創刊されたばかりの『ガロ』をわたしに教えてくれた人物だった。映画というものは劇場で観るばかりのものではない。自由に自分で撮って人に見せるべきものでもあるのだという教訓を、わたしはこの作品から受け取った。そこにはわたしが観たばかりの『絞死刑』の記憶が、さりげなくパロディとして引用されていた。そう、この年あたりを契機にして、これまで海外から実験映画や前衛映画を受け入れてきた日本では、若い世代のなかに攻勢に転じようとする意志が頭を擡げてきたのだ。原は社会の混沌を見つめながらも、天衣無縫な感受性に訴え出ようとしていた。
以上は、この雑誌を手にした一読者からの感想である。一冊の雑誌はもっとも幸福な場合、創刊されたとき、それに喚起された一群の読者を創造する。やがて彼らは雑誌に投稿を開始し、投稿はやがて寄稿となって文化の運動を継承してゆく。こうした現象の典型的な例がここにはある。わたしや中条省平の世代にとって、すべては『季刊フィルム』から始まったのだ。》

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