「季刊フィルム」という雑誌についての記憶2

昨日のエントリでは、「『芸術』の予言!!」(2009年、フィルムアート社)の巻頭に寄せられた四方田犬彦氏の「世界の迷路のなかで――序文にかえて」の冒頭を引用させていただいた。「季刊フィルム」創刊当時の状況と読者の期待を紹介したものだが、同誌を刊行した側の布陣と彼らの思想が伝わらないのは中途半端である。そこで続きを引用させていただく。

《ここで視点を替えてみよう。それでは『季刊フィルム』を創刊した側は、どうだったのだろうか。
すべての背景となったのは、勅使河原宏である。彼は草月流の家元の息子として生まれ、映画監督として『落とし穴』や『砂の女』を発表する一方で、海外の実験芸術を情熱的に日本に紹介し、新しい芸術運動を起こさなければならないという使命感を抱いていた。1967年10月、草月実験映画祭が成功裏に終わったとき、この勅使河原の意向を受け、これを契機に年に一度実験映画祭を行ない、季刊で批評雑誌を刊行しようという企画を、当時草月アートセンターに所属していた奈良義巳がもちあげた。その受け皿としてフィルムアート社が設立されることになり、編集同人を代表し中原佑介が社長に就任した。かくて1年の準備の後、1968年10月に待望の『季刊フィルム』が創刊されることになったわけである(その後、75年に中原と交代して奈良が社長になった)。
この雑誌は7人の同人による編集体制をとった。映画畑からは勅使河原と、当時はまだ記録映画の監督であった松本俊夫、それに実験映画の飯村隆彦、フランス映画紹介者の山田宏一が参加した。ユニークな点は、作曲家の武満徹、美術批評家の中原佑介、そしてグラフィックデザイナーの粟津潔が、同じ同人として編集委員に名を連ねたところである(後に山田と飯村が抜け、今野勉と石崎浩一郎が新しく参加した)。44歳であった勅使河原を除けば、彼らの大半は出版人の奈良を含め30歳代の後半であった。彼らは敗戦を中学生で体験し、1952年の日本共産党の路線変更をもっとも多感な青年期に迎えた世代に属していた。この世代の連帯意識と専門分野の多様性とが、『季刊フィルム』を日本の映画雑誌の歴史のなかで、類のない独自のものにした。それは「フィルム」を題名に謳いながらも、けっして映画ですべてが終わるとは考えていない雑誌だった。「すべてのものを映画につぎ込まなければならない」とゴダールは語ったが、この7人はそれを逆手にとり、すべてのものは映画に帰着すると同時に、映画から出発して全世界へと向かうのだという主張に読み替えたのである。
創刊号に掲げられた巻頭言を引いてみよう。

その時、突然、ぼくらは、今日の世界の迷路の真只中で、〈もうひとつの映画〉への意志にめざめていた。映画を概念として、理論として、思想として、感覚として、行動としてぼくらの生活の次元に放ち、映画の中にみずからとびこみ、その無限の無方向性の中であがきつつ、ぼくらは、まず、季刊〈フィルム〉を創った。もちろん、それは万里の長征の第一歩にしかすぎない。今日、芸術のジャンルは崩壊し、相互に混合と拡大を求めあう苦悶(アゴニー)が世界をゆさぶっている。それは、〈創造〉という美しい錦の御旗の下で、単に状況(反状況的イデオロギーを含めて)に対応していた芸術というものの死を意味する。ブレヒトのメッセージを、今日、ぼくらなりに敷衍すれば、世界をその変化と変革の中で捉えない限り、世界を芸術によって再生することはできないということだ。芸術ジャンルの境界を破壊し、そして、芸術そのものを〈仮象〉や〈虚構〉から脱出させる、その変革的機能において、映画ほど、今日の迷宮世界に突き刺さる強力な武器はないはずだ。
ぼくらはヒステリックに映画=芸術の権威回復を叫ばない。
ぼくらは、映画を芸術として限定しはしない。
映画を、ひとつの、ワルター・ベンヤミンのいう〈破壊的性格〉として捉え、所有するのだ!(…)
来たれ、大いなる魂よ! ぼくらはきみをよぶ。きみをまねく。

高揚感に満ちた宣言文である。ここには迷路と化してしまった世界のなかで、映画の無限の可能性を求めるという期待とともに、既成の芸術に死を宣告せんとする強い姿勢が窺われる。世界は変革の相において捉えないかぎり、けっしてそれを芸術として表象することはできない。そして映画とは、あらゆる芸術の規範を破壊し、すべてを変革の運動へと組織してゆく力である。ちなみにベンヤミンはこの1968年にようやく著作集の翻訳が開始されたばかりであり、まだ今日のようにアカデミズムには帰属していない最新思想であった。》

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