「室内」(6)

じっさいにこの目で見たのだし、それは女の姿だったのだから、わたしに恐怖の感情など生じるわけがなかった。女が実物なら早く戻ってほしい。そうでないならからくりを暴くまでのことだ。わたしは女の残り香でもしないか、空のベッドをくんくんしてみたが、無駄であった。照明をつけて、ゴーグルを取りに下の部屋に行った。ベッドルームを探査し直したが、やはりプロジェクターもスクリーンも、もちろんホログラフィック・プレイヤーもない。そうすると考えられるのは、わたしのブレインドロップが不正にアクセスされた可能性である。しかし、この部屋には外部からの電波を遮断するシールドが張られており、それはいまもちゃんと機能していた。無線LANからの侵入は、現代のセキュリティ技術の水準から見て考えられない。
――おばけかなあ、
と、わたしは口に出して言った。しかし、この時代にはもうおばけの出る幕はなくなっており、古い伝承としきたりがいまに生きている院磨のような集落といえども同じはずである。だいたいわたしのようなガチガチの合理主義者の前に出る酔狂なおばけなど考えられないし、事実わたしは一度もそれに類するものを眼にしたことがなかった。
――明日考えよう。
運動して眠くなったので、わたしは再び窓際のベッドにごろんと横たわった。今度は夢も見ずにぐっすり寝てしまった。

翌朝、昨夜の不思議な体験のことを話すために、樹里さんのところで朝食を取った。
――女の顔は見た?
――暗くて見えませんでした。
――変な話ねえ。やっぱり夢だったんじゃないかしら。
――今朝になってみると出来事の全体にもやがかかった感じがするけど、昨夜隣の部屋を確かめに行ったときと、女の姿を見てすぐに室内を調べたときの意識はたしかだった。あれが記憶違いなら、おれのアタマがおかしくなったと考えるほかないですね。
――もう一つの可能性はユーレイね。
――そう来ると思いましたよ。院磨には出るんですか、ユーレイが。
――出るなんて言ったらお客が来なくなっちゃうでしょ。
――じゃ、出るんだ。
――冗談よ。そんな話、一度も聞いたことないわ。
――そうでしょうね。
わたしは樹里さんが淹れた美味しいホットコーヒーを口にした。
――ぜったいそうじゃないという確信があるけど、あれが錯覚だと言うなら、昨日甚五朗さんから聞いた院磨伝説の影響ですね。
昨夜彼の家を再訪した話をした。
――そう、院磨の古い言い伝えを聞いてきたのね。じゃ、ここの結婚のしきたりのことも、もう知っているのね。
――めったに外部の人間には教えないようですが、甚五朗さんはあっさり話してくれましたよ。
――あなたのことを気に入ったのよ。どっちにしても、結婚という制度そのものに意味がなくなったいま、一夫一婦とか一夫多妻とか、まったく問題にならないわね。
――そうですよ。おもしろいのは、それが何であれ結婚に関するしきたりが残っている点です。樹里さんはだれか別の女の人と男を共有したことがありますか。
――院磨のしきたりによって、という意味?
――そうです。男の二股という意味ではなくて。
――男の二股なら、あくまで疑惑だけどあるわね、
と言って樹里さんは笑った。
――でも、院磨のしきたりに従って、正式に二人の妻の片方になったことはないわ。
――知り合いのだれかに一夫二妻の生活をしている三人組っています?
――いるわよ、もちろん。でもやっぱり、そういうやり方を選ぶ人たちは、保守的な考えの持ち主ね。いまは古いしきたりに従うかどうか、わたしたちが自由に選べるのよ。一夫二妻を選ぶ人たちにはそれ相応の理由があるのよ。
わたしはそれ以上立ち入った質問はしなかった。代わりに、
――甚五朗さんから、姉妹が一人の夫を迎えたという伝説を聞きましたが、あの話はちょっとロマンチックだと思います。
――そうかしら。女の立場からすると嫌な話よ。浮気とかお妾さんとかならありふれた話だけど、姉妹なのよ。
わたしは『宇治十帖』の、忍んできた薫を姉が故意に妹の寝所へ招じ入れるくだりを、かいつまんで樹里さんに紹介した。
――王朝のお話としてならわからなくもないけど、
と彼女は言った。
――いまの話を書いたのが紫式部なら、一人の男の姉妹をめぐる恋が、女性の眼を通して語られたことになりますね。
――そうねえ。でもそういう話を喜ぶのはたいてい男よ。『恋のエチュード』みたいに。
樹里さんはフランスの古典を引用した。
――なるほど。
わたしは肯いた。

午後になってもまだ、樽鍬に向かって立つべきかどうか、わたしは迷っていた。女の幻はわたしの中でだんだん魅力を増しつつあった。もう一晩ここで過ごしたら、もっと鮮明な姿を現してくれるかもしれない。ああいう幻影をわたしの眼に生じさせるからくりは、いまのところさっぱり見当がつかないが、もう一度体験すれば、たぶんもっと多くの手がかりを得られるに違いない。
わたしは樹里さんから教えられた「結(ゆい)」の人たちを尋ねてみることにした。合掌造りのある集落では、茅葺屋根のふきかえを住民総出で行なうのが常である。こうした団結の基礎として、ふだんから村の中に形成されている人のつながりを結と呼ぶ。院磨にも結が存在するが、茅葺のふきかえにロボットの手を借りられるようになった今日、その目的も変わり、村祭り等の伝統行事や古くからのしきたりの継承を目指す結社に転じつつあった。院磨の結の目的には、当然一夫二妻を受け継いでいくことが含まれている。
結の人々が寄りあいに使う場所は院磨神社の杜、すなわち鎮守の杜に付属した公会堂である。院磨神社は甚五朗さんの話にも出てきた最初期の社が発展したもので、今も院磨の伝統の根幹とみなされている。公会堂を管理するのはやしろ前の信二さんである。彼は「正式に」二人の妻を持っている。院磨では妻の間に正準の違いはない。結婚の順番が異なっても、両者は対等に妻である。またいまでも男が姉妹を妻に迎えることは珍しくないと言う。信二さんはまさしくこの立場の人だった。わたしは彼らに会って話を聞いてみたいと思った。
一昔前まで、突然現れたよそ者にこんな立ち入った話を聞かせることなどあり得なかった。重婚は民法で禁止されていたのだから当然と言えば当然である。しかし結婚に関する法の規定も人々の慣習もまったく変わった。いまでは院磨の一夫二妻も一つの文化に過ぎない。
昼過ぎ、ちょっと樹里さんの店に立ち寄って頼むと、彼女はすぐに信二さん夫婦と連絡を取ってくれた。わたしはそのまま店を後にして、やしろ前の合掌造りまで出かけていった。

 

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