「室内」という作品について

拙作「室内」が盛り上がっている(脳内評価)。残念ながら、明日は所用でたぶんブログを更新しないので、代わりに余計な間奏を書いておく。「室内」のラストはまだ書き終えていないが、すでに完成している。あっと驚く結末が待っており、そこに二十歳のミサトも出てくるので乞うご期待(別の世界線(=「記憶術」)上でなら、彼女はちょうど夏休みを桐子とくっついて過ごしているところだが、こちらの世界にまだキリコは誕生していない。よってミサト単独での登場である)。

さて、borujiaya(「ボルジア屋」をたんにローマ字表記したもの)でエゴサ(=自分について検索すること)すると、上のほうに昔のわたしのTwitter アカウントが出る。しかし、わたしはもうTwitter をやっていないので、検索しても無駄である。それに、偉い人を巻き込んで昔わたしがやった悪行が明るみに出てしまうから、そういうのを掘るのはやめにしてほしい。

そんなにTwitter でのわたしの書き込みが気になるのなら(そんなはずないが)、ここでわたしが特に気に入っているポストを紹介しよう。あくまでわたしの好みであるから、つまらなくても文句を言わないでほしい。

 

次点「飾りじゃないのよ鼻毛は ふっふぅー」

 

金賞「特別じゃない どこにもいる わ た し 僧侶A-」

 

だからわたしの好みに過ぎないと言ったのに。

 

わたしにとって小説は長きにわたってもっとも親しみ深い表現の形式である。しかし、小説を書かないで過ごした空白期も長かったので、再びここへ帰ってこようとは予想もしなかった。ラモー『ボレアド』、ヴィヴァルディ『狂気を装うオルランド』に接することがなかったら、おそらく小説を書こうという気にはならなかった。二作品に感謝しなければならない。

もちろんこの二作品の音楽表現そのものにである。小説を書くとき、わたしはもっぱら意味の連関に沿って語を適切に配分するとともに、その配分から生まれるリズム(韻律に限定されない広義の音楽的躍動)を維持したり、変化させたりすることに注意を払う。舞台設定とストーリーは二の次である。これはラモーとヴィヴァルディの音楽から直接触発された文章表現のスタイルだ。彼らの音楽には、小説が言葉で表現する思念相互、あるいは表象相互の結びつき、それに語と文のリズムのソリッド感(削り出された感じ)と多様性に相当する表現がある。

『七月』は四週間程度で書かれた。何の気なしに書き始めた「記憶術」が引き金となり、次々に構想が湧き出して止まらなくなったのだが、「変態」、「五十三音」、「廃市にて」という後半三作には、この七月に日本で実施された二つの選挙に対するわたしの批判的な姿勢が反映し、わたしはこれらを七月中に書き上げる必要に迫られた(都知事選の投票という茶番が三十一日に予定されていたからだ)。もちろん政治的な視点が反映したと言っても、それは意味連関に沿った語の配分とリズムという小説の本質にではない(このレベルでは外界の出来事はほとんど影響しない)。たとえば「廃市」の、自然と融合しつつある旧都庁舎のような「例示」されたものの中に、政治的状況についての一つの見解が現れているというに過ぎない。それでも「七月」というタイトルが示す通り現実の投影は明らかなので、七月中に作品集をまとめて「発表」することには意味があった。

この理由で後半はいくぶん急いで筆を進めたが、そうした準備運動が「室内」を書くのに役立った。こちらの作品は急ぐ必要がないので、のんびり書き進めたが、七月に掴んだ思念と言葉の配置の手ごたえがそのまま維持されているため、書くべきことをその通りに書くことができた。

主題のようなものについて言えば、『七月』同様、「室内」も記憶の襞をめぐる話である。わたしは言葉を、自然が人間という生物種を通じて生み出した記憶の一つの体制とみなしている。自然そのものにも歴史があるが、それは自然の各瞬間の変化の中に刻み込まれており、思い出される必要がない。だが、一度自然が言語を獲得すると、それは言語を通して記録され得るようになる。いっぽう人間は、言語によるそれとは別種の記憶の方法を持っている。しかし、そういう非言語的な記憶は、自然の歴史が各瞬間に「過去」を刻んでいるのと同様、思い出されることなく「存在」し得る(人間が自然物である以上は当然である。なおここで「存在」にカッコをつけるのは、思い出されないでいる「過去」が消え失せたわけではないからだ。『失われた時』のマドレーヌが示す通り、それは不意に想起されることがある)。

言語によってのみ、人は「過去」を確実に想起可能な形式で保持できる。こうして個体の存在なり個別的な記憶なりとは異なる次元における言語活動が始まり、それは歴史の進行とともに「言語の」歴史という本来の姿を現す。そして、それが人間のでなく「言語の」歴史であることがいっそうはっきりするのは、人間の生物学的進化の限界が彼ら自身の眼に明らかになるとき、すなわちロボットとAIが実用化され、人間と共存を始めるときである。ロボットとAIは言語を共有するばかりか、言語の本来の役割(=自然の記録)を人間から引き継いでいくようになる。ここから明らかなのは、言語こそ人間と機械に共通の記憶の体制だということである。

ゆえに、わたしの言う記憶の襞とは、一つには自然そのものの記憶、およびわれわれ人間の非言語的記憶のように、思い出されずに終わる可能性を持った「過去」自体を意味し、一つには人間と機械の境界を越えて展開する「言語」を意味する。『七月』の作品群だけでなく、「室内」にもこの主題が現われている。

「廃市にて」では都市の記憶の襞が主題化されていた。都市は人間が歴史上始めて生み出したロボットであり、そこでは人間たち自身が仕切られ、活動の場を与えられる。だから都市の記憶の襞は、自然が生み出したそれであると同時に、人間が自ら機械と言語を通して作り上げたものでもある。この主題は「室内」に受け継がれている。

しかしあらためて言うが、主題の展開は小説の本質ではない。わたしが何をその本質と考えているかについては、先に述べた通りである。

たまたま書く気が湧いて、こうしてブログ上で小説を発表すると、ちょっとした快感を覚える。作者と読者の間に余計な介在がないからだ。わたしは現代日本の学術出版と優秀な研究者たちの活躍に満腔の敬意を表する。『神学大全』の邦訳完成、最近では白水社の『古典ギリシア語文典』の出版など、日本の学術の水準には眼を見張るものがある。ところが、これに引き比べてジャーナリズムと文芸メディアの現況はどうだろう。日本のメジャーなジャーナリズムが与党の脅しに屈したり、自発的に政権にすり寄ったりするさまはただ醜悪である。文芸メディアと言えば、だれも気にしていない文学賞に固執し、売れ筋作家に媚びを売る無節操ぶりだ。こういう状況では、WWW(注 草が生えているわけではない)にでも頼らなければ、妥協のない作品など発表できない。「作家」たちは自分のサイトを作品制作と発表の主たる舞台としていくべきである(ウェブで作品が公開される事例は知っているが、出版物の宣伝の一種であることがほとんどだ。また制作の舞台のウェブへの本格的な移行は、「作家」という商売が成り立たなくなる可能性を含意する)。

「五十三音」では、おそらく今後しばらく「作家」たちが手を出すことのない素材が使われている。いっぽう「室内」の場合、単独でならすでに使い古された素材が、意外に興味深い組み合わせで登場する(ラヴクラフト「インスマスの影」の借用はご愛敬であり、まったく別種の作品だ)。これらはコロンブスの卵であって、先に発表した者勝ちである。

引き続き「室内」を楽しんでいただけることを希望する。

 

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