ラモー『結婚の神と愛の神の祭典』のニケ盤ブックレットの解説(昨日も紹介したThomas Soury の文章)は、作曲の目的と上演される舞台(ラモーのオペラは劇場のみならず、ヴェルサイユでの式典などでも上演された)、それにリブレット作者との共同作業が、どれほど大きく作曲家の構想に影響するかを明らかにしている。音楽学者でない限り、わたしたちはふだんそこまで立ち入ったことは考えずに、出来上がった音楽だけを聴いて作品と様式の特徴を捉えようとする。ヴィヴァルディやラモーのオペラのように、本格的な研究と再上演がなされ始めてまだ二、三十年しか経たないなら、なおさらである。二人の作曲家とも本国では優れた研究書に恵まれているけれども、残念ながらこれらの書物が邦訳される見通しはほとんどない。だからCDやDVDのブックレットに添付された質のよい解説は貴重だ。Soury の解説には、昨日参照したカユザックのバレエの扱いとラモーの音楽の関係の他にも、作中のコーラスの位置づけや、舞台装置が音楽にもたらした影響など、興味深い指摘がある(第二アントレ「カノープ」にはナイルの氾濫の描写があるが、この舞台装置は相当大がかりなものだったらしい)。
もう一点わたしが注目するのは、ラモーのオペラにおけるイタリア様式の活用という彼の指摘である。『カストールとポリュックス』1754年版に、ヴィヴァルディ的モチーフのあからさまな援用があることはすでに触れたし、たとえば『ボレアド』序曲、冒頭に出てくるオクターヴの跳躍の、ちょっと剽軽な感じにもイタリア趣味が垣間見える。わたしは今までこの観点(ラモーのオペラのイタリア様式との出会い)から彼の作品群を聴いたことはなかったので、またしても聴き直す必要に迫られている。『カストールとポリュックス』1754年版の一場面にわたしがヴィヴァルディ様式を聴き取れたのは、このところ偶然ヴィヴァルディのオペラばかり聴いていたからに過ぎないのだが、こういうことがあると書物や論文などを通じて仕入れた知識に経験が重なってうれしくなり、いっそう深みにはまる。古楽演奏家がスコアを徹底的に読みながら得ていく作品理解がどれほどすごいかも、ほんの少し想像できる。彼らは忙しくて文章を書いているヒマなどないわけだが、時々はその知識と経験の一端でも漏らしてくれるとうれしい。たとえばコンサートで配布される演奏家自身の解説などにも役立つものがある(椎名雄一郎氏のJ・S・バッハ・オルガン作品チクルスの解説は素晴らしかった)ので、そういうドキュメントがどんどんウェブで公開されるようになるといい。
ラモーとイタリア様式の出会いの話に戻ると、50年代には例のブフォン論争があり、ラモーこそ批判のやり玉に挙げられた当人である。その頃の彼の音楽がフランスの伝統的な様式(たとえばリュリのそれ)に従っているはずもなく、その上イタリア様式まで取り入れているとするなら、かの論争がかなり的外れだった可能性が出てくる。わたし個人は前からそこでの論点が各陣営の論者によって恣意的に選択され、議論も噛み合っていなかったのだろうと思っているので、イタリア様式という材料を通して具体的にどうピント外れだったかを確認できるとすればありがたい。仮にラモーを攻撃していた人たちが、作曲家の30-40年代の作品群を「フランス的」とみなしたのだとすれば、さすがに雑であろう。なぜなら彼のオペラはフランスの伝統を受け継ぎながら、同時にそれを組み替えようとしていたのだから。前に彼の作品を形容してわたしが使った「神経生理学的」というたとえは、情動の表現や運動の表現にさえ中枢の処理が反映しているという趣旨であり、ラモー様式の特徴はここにある。まさしく「彼の」様式であって、フランス流という言い方はできない。たとえば『結婚の神と愛の神の祭典』のバレエにパントマイムに近いアクションが取り込まれ、そこからたんなる舞曲を離れた新しいバレエ音楽の形式が生まれ出たという、昨日も取り上げた経緯には、ラモーにおける運動の表現が「頭脳プレー」になる理由の一つがよく現れている。またこれは彼のオペラを聴く人のほとんどすべてが認めることだと思うが、強い情動の表現においても彼の音楽は怜悧である。ブフォン論争でラモーを攻撃した人たちはここが気に入らなかったようだが、これはラモーが早く生まれ過ぎただけのことで、作曲家自身に何の責任もない。