加藤泰後期作品の折り返し構造について(1)

加藤泰後期の2作品『日本俠花伝』(1973)と『炎のごとく』(1981)はどちらも2部構成で、前後半に呼応しあう場面またはショットが配置される「折り返し」構造を持つ。

長尺の映画と、物語構成そのものに自覚的な映画に、こうした「折り返し」構造が採用されることはよくある(最近の例では『ハッピーアワー』と『ひと夏のファンタジア』。前者が「重力に逆らうこと」のモチーフを――あかりの松葉杖を挟んで――第1部と最終部に取り入れ、シンメトリカルな物語構成を採用しているのは、5時間超の作品にひとつの軸を与えるためだろうし、後者が花火の場面を挟んで廃校舎の時間差切り返しショットを前後半に配置しているのは、構成そのものを見せる映画という性格ゆえだろう)。

加藤泰の『日本俠花伝』は、1918(大正7)年、全国で米騒動が相継いだ動乱の時代を舞台に、真木洋(ひろ)子演じる真っ直ぐな女・ミネと、偶然の出会いを通して彼女の人生を変えてしまう殺し屋(渡哲也)の悲恋を描いている。冒頭、走る列車の満席の車内をローアングルで深く(車両の通路側ドアに向かって反対方向から)捉える固定ショットがあり、ドアが開くとミネが入ってきてワイドスクリーン画面の中央奥に立ち、違法な行商のための口上を語り始める。数分続くこの場面で、真木洋子は弁舌も巧みに絵本を売り込んでみせる。本作の美術は、明治の街並みや室内の調度品を見事に再現している(第1部前半、留置場でミネと同房だった女囚が特高警察の追跡を受ける場面のセット、同部最後の渡哲也の押しこみ直前、無人の室内と流し場のインサートなどが代表的)。冒頭の列車内の固定ショットも美術と照明が優れているだけでなく、3等車に乗り合わせた乗客の姿、彼らがインフレに苦しんでいることをうかがわせる会話、さらには彼らからなけなしの銭を巻き上げて生き抜こうとする女の弁舌を捉えており、これから観客が目にする群衆シーンの騒擾と流血の幕開けにふさわしい。

実はこの冒頭の固定長回しも、本作の「折り返し」の一環である。なぜならミネは、第2部ではヤクザの女房となり、組が軍から請け負った米(ウラジオストクの日本軍に送るためのもの)の調達を仕切ったり、米騒動を起こそうとする群衆を鎮めたりすることになるからだ。第1部の彼女は、作家志望のダメ夫に甘えたり取りすがったりするばかりで、まだその真価を発揮しない。しかし、冒頭の行商場面では例外的に人々を惹きつける見事な弁舌の能力を示す。観客は全編を見終わって、なぜこのファーストショットだったのかを理解することになる。

続く渡哲也との運命的な出会いと別れのシークエンスは、「これが映画だ」と言いたくなる素晴らしさである。絵本がよく売れたので、次の駅でミネは日本酒を買う。そこには1等車に乗り込もうとする遊説中の代議士の姿があった。ミネは列車で待つダメ夫の隣りの席に戻って、彼に焼き芋と日本酒を勧める。斜向かいのシートのちょうどふたりを見る位置には、異様に鋭いまなざしの渡。列車が動き出すとミネは洗面所に立ち、続いて渡も立ち上がって1等車へ向かう。もうおわかりのことと思うが、ヒッチコック、007シリーズ、『アメリカの友人』など数々のスリラー作品で繰り返されてきた、無言の緊迫した列車内シークエンスの典型である。1等車に押し入った渡は代議士を刺し、上着を脱ぎ棄てて3等車に戻ると、ミネがさっきまで座っていた彼女の夫の隣りに座る。追手が渡に気づかずに車両を通り抜けていく。渡は立ち上がってもう一度1等車方向に戻り、通路で洗面所から出てきたミネと鉢合わせる。追手のひとりが立ち上がった渡に気づき、彼の隣りにいたミネの夫はとばっちりで共犯の嫌疑をかけられてしまう。追手をかわそうとする渡がミネに近づくと見つめあうふたりのアップ、続いて逃げられないと悟った渡が走る列車から飛び降りるスローモーション、シークエンスを締めくくるのは走ってくる列車を正面からローアングルで見上げる豪快なショットである。

ところで第2部ラスト近く、今度は去っていく列車を真後ろから収めた冒頭と同じアングルのショットがあって、両者のシンメトリカルな呼応が典型的な「折り返し」構造を形作る。こちらの列車には、すでに再会を遂げて愛しあっているミネと渡が、冒頭のミネおよび夫と同じ配置(通路側にミネ、窓側に渡)で座っている。運命の道行きの途上である。

『日本俠花伝』の2部それぞれの冒頭に、渡哲也がドスを使って行なう暗殺の場面があるのも「折り返し」の例だが、その程度のことなら2部構成のシナリオには当たり前と言っていい。本作の構成についてわたしが特に注目するのは、警察官が女囚に加える凄惨な拷問のシーンがシンメトリカルに配置されていることである。

先に見た第1部冒頭のシークエンス後、ミネと夫は代議士殺害の共謀容疑をかけられて拘留されてしまう。ミネの同房の女囚に対して取り調べ官が行なう拷問は、『炎のごとく』の菅原文太が目にしたら、即座にその取り調べ官を斬り捨てるであろう残酷さである。観客はこの拷問場面を見て、まさか主役の若き真木洋子がこのような目にあうことはあるまいと思う。じっさい第1部では、真木と夫は放免される。

ところがである。第2部でミネは渡と再会し、神戸港に浮かべた舟の上で果物を交換し(渡がミネに手渡すのはかじりかけのトマトであり、ミネはそのかじり口のところから一口だけ食べる)、性交する。夜景を目にしたふたりの「きらきら、きらきら」の台詞の応酬も美しい。第1部においてすれ違いざま見つめあうだけだったふたりは、第2部では一瞬にして恋に落ちる。しかし、彼らの逢瀬をじゃまするのはまたしても蠍のごとく陰湿な警察官だ。渡を逃したミネを捕らえて連行した彼は、凄惨さにおいて第1部で描かれたそれをはるかに上回る拷問を彼女に加えるのである。真木洋子が半裸で演じるこの場面は、朝の連ドラで彼女が主役を演じた翌年に公開された本作の、言わば売りの場面だったと言う。しかしわたしには、この場面が会社の意向を受けて無理に挿入されたものとは思えない。嫌悪感で目を背けたくなるシーンであるにもかかわらず、これこそは加藤作品においてきわめて重要な悪の描写の、極致だからである。第1部と第2部の拷問シーンのこうした呼応は、監督がこれらを撮ることにかけた意気込みを現しているように見える。もしこの見方が見当はずれであったとしても、上に見た通りのショットの「折り返し」が本作の様式を特徴づけていることは間違いない。(つづく)

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