加藤泰『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』(1966)

加藤泰が安藤昇のプロダクション「ゴールデンぷろ」で1966年に撮った『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』は、加藤のフィルモグラフィーの中では無視されがちかもしれない。ストーリーの破綻と、観客へのサービスを欠いた人物の描き方(たとえばペギー潘の強い訛りのある台詞を吹き替えなしに使ったり、久保菜穂子と南原宏治の関係について何も説明しなかったり、軍規違反者が送り込まれる地獄部隊が意外にいい奴らばかりで、残酷な描写がほとんどなかったり等々)を理由に、苛烈な戦場の描写や爆発的な情緒の表現が、作品の構成によって掬い取られることなく暴走していると判断する向きもあろう。

たしかに本作には、同じ66年に撮られた『沓掛時次郎 遊侠一匹』の静謐な形式性も、『骨までしゃぶる』における脚本・カメラ・編集の見事な連携も、安藤昇と初めて組んだ『男の顔は履歴書』の、暴力描写の激しさを複数の時間軸に取り込む構成の巧みさもない。作品に落としどころを求めず、セットを組み、演じさせ、撮って繋ぐという作業を、ストーリー性をほとんど無視してやっているという点では、異色作ということになるのかもしれない。しかし、わたしはこのような本作の「撮って繋ぐ」制作法には、加藤泰の映画における思考が端的に現れていると思う。物語を楽しもうとするお客さんには物足りないフィルムだろうが、いま加藤泰を見る人たちは良かれ悪しかれ彼の映画の撮り方やその様式にも関心を持っているはずである。そこでここでは本作からいくつか重要なエピソードを選び、それらがどのように撮られ、編集されているかを振り返ってみたい。

本作はローポジション撮影の限定的な使用という点で『炎のごとく』の先駆をなしている。『炎のごとく』のローアングルがシークエンスの一環として控えめに使われていることは、たとえばお富(きたむらあきこ)が仙吉たちの晩酌の支度をする後半の美しい場面などを見ればわかる。中期の加藤泰は、しばしばシークエンスの中核でローアングルを用い、アップやバストショットやパンなどと組み合わせることが多いが、『炎のごとく』ではローアングルも他のタイプのショットと同格なのである。

『阿片台地』のタイトル後の場面は、中国大陸の荒れ地を馬で行く安藤ら日本軍の小部隊と中国人捕虜を俯瞰で収めたロングショットと、馬上の安藤と捕虜の表情をアップで捉えるショットを組み合わせて編集されている。すぐに安藤の部隊は敵の銃撃にさらされ、突然岩陰から現れたペギー潘によって救出された彼を除いて、部隊の全員が死ぬ。安藤が見上げる馬上の潘のショットがローポジションなのは当たり前として、いま述べたような荒れ地の戦闘場面では、全景の俯瞰、丘の上に現れる敵のロング、人物のアップなどが細かく編集される必要があることは、本作を見ていない人にも了解してもらえるはずである。つまり戦場のショットを多く含む作品では、特に重要な意味を持つ空間や室内のそれを除けば、一般にローアングルは使いにくい。

『阿片台地』では、阿片を栽培している地獄部隊の宿営地(向かって左手に地主の土壁の家が見え、右前景から中景には咲き乱れるケシの花が映っている)と、安藤昇が班長を勤める第3班の兵舎内部とが、ローポジションで撮られた代表的なショットだ。どちらも繰り返し登場するので、これらがローアングルで「じっくり」撮られる理由はたしかにある。では加藤作品でおなじみの、主人公が思いをぶちまける場面にしばしば見られるローアングル固定はどうかというと、そういう組合せは本作に登場しない。

アヴァンタイトル、およびラスト近くで安藤が本部長をぶちのめす場面は、複数の人物を引いて収める客観的なショットとアップからなっている。これから詳述する二つの重要なエピソードでも、ローアングルはあくまで補助的で、多くのショットが横たわる二人の人物の上半身なり脚なりを少し俯瞰気味に捉えている。どうしてそういう撮り方になったのかについて余計な憶測を加えるべきではないかもしれないが、余計なことを臆面もなく書くのがわたしの常だから、後で少しだけこの習いに従わせていただく。

本作のストーリー上の中心は安藤と潘の恋である。冒頭安藤は潘の馬に引き上げられ、九死に一生を得る。フィルムの半ば、今度は地獄部隊の厳重な監視をかわして安藤のほうが潘を訪ねるーー物語としてはここが一番盛り上がるべき箇所である(実際にはそれほどではない)。さて、わたしが取り上げたいのは、二人の恋の行方だ(ストーリー上のではなく、映像上のである)。

潘に逢いに行くために安藤が立てた計略がばれ、彼は部隊長の南原宏治らから地獄部隊流の過酷な刑罰を科される。本作の設定の一つに、部隊を本隊から切り離す吊り橋があり、視覚的にいろいろな戦争映画の記憶を呼び起こす(戦争映画以外にも、清順『散弾銃の男』などをも想起しないわけにいかない)。刑罰というのは、罪人をこの橋から逆さ吊りにするというものだ(吊り橋の下は急流ですぐ先には滝がある)。吊るされても平然と上官らを罵倒する安藤に苛立った副官がロープに斬りつけ、安藤は真っ逆さまに急流に落ちる。このショットは『車夫遊侠伝 喧嘩辰』の車投げの場面のように優雅ではなく、とにかく脚本にそうあるから川に落ちる安藤を撮って、すぐ後に助けに行くため服を脱ぎ捨てる潘のショットを繋げた、としか表現しようのないものだ。予算の制約でそれ以上のことはできなかったのだろう、ウェスタンなどによくある、必死に泳ぐ潘と水中で身を捩る安藤のクロスカッティングなどもいっさいなく、代わりにインサートされるのは川の流れや滝の説明的なショットに過ぎない。そしてそれらに続くのは、横たわっている二人の素足の膝下、さらに裸の二人の胸元から顔である。おそらく初めての性交の直後で、潘は「愛していると言って」などと言う。カメラは二人を少しだけ上から撮っているが、彼らは横たわっているので、ローポジションと言えば言えなくもない。しかし、このショットに関してそんなことを言うのはこじつけであろう。

逆さ吊りから垂直落下、助けに川に入る潘、いくつかの激流の描写、そして水平に横たわる二人。いったいこれはどういう編集なのか。もっとも単純な解釈は、予算がない中、安藤が受けるリンチめいた刑罰から二人の愛しあう姿までを一気に繋いだというものだろう。これをわたしも否定しないが、もう一点付け加えれば、加藤泰は映画の定型を棚上げして、撮って繋ぐという制作の原点に立ち返っているのだと思う。映画の冒頭、安藤は潘の手で馬上に救い上げられる。そこでの編集は、ウェスタンや戦争映画のある種の定型に従うものだった(男が女の手で馬に引き上げられるという絵も、60年代にはすでに定型の一つだったと言っていい)。後半の安藤の垂直落下から、水平に並んだ二人の身体への移行は、もう定型に従ってはいないものの、編集のエコノミーの極端な姿になっている。わたしはこういう編集が採用された理由を、戦場の愛という設定に求める。安藤と潘の恋は待ったなしであり、映画のほうも悠長なことをしていられない。おおよそこういうことが監督の考えだったのではないか。

もう一つの重要なエピソードは、久保菜穂子と南原宏治の関係である。前半本部隊の宿営地にたどり着いた安藤は、そこで墓地に花を手向ける女(久保菜穂子)の姿を見る。派手な和服の柄と口調から見て今は娼婦であるかもしれない。しかし、彼女が花を手向けているのは夫の墓で、後の会話から彼女が夫を追って前線に来たこともわかる。

南原宏治のほうは、安藤同様俠客上がりの軍人で、今は地獄部隊の隊長である(だからそこへ送り込まれた安藤にとっては仇敵)。彼らのツーショットもいろいろと奇妙で、南原は口では鬼隊長めいたことを言うものの、けっして安藤に直接手ひどい暴力を加えようとはしない(それどころか敵襲の危険がある夜には、安藤を自室に招じ入れて酒まで振る舞う)。その南原が、久保に会いに行く場面があり、前後に何の説明もないにもかかわらず、これが非常に優れたシークエンスなのである。

まず卓上に差し入れの品々が並ぶショットがあり、アングルが変わって同じ卓に札束が置かれる。オフの男の声が南原のものだと確認できるのは、軍服姿の彼の顔がアップになるからだ。画面の奥には和服をきちんと着込んだ久保がいて、南原の心遣いに感謝する表情である。彼は立ち上がり、ドアを開けて出て行こうとする。ドアの向こうには客を迎える娼婦の姿が見えるので、やはり久保は娼婦である。ならばなぜ南原は出て行こうとするのか。すると久保はドアを閉める。続くショットは少し手前に引いて、横たわる久保の上半身を捉えるそれで、固定の長回しになる。南原が久保の体にすがりつくように覆いかぶさると、久保は彼を押しのける。「すまん」といって体を起こそうとする南原、彼を引き寄せて着物の帯を解こうとする久保。次の瞬間南原は彼女にキスして立ち上がり(ここでアングルも変わる)、「また来る」と言ってドアを開ける。

つまり南原と久保はどうやら体の関係を持ったことがないらしい。二人のツーショットはこれっきりで、関連する場面はと言えば、少し後で部隊を抜け出した安藤が、久保の部屋にやって来てビールを飲みつつ、「(南原に)惚れてるのなら惚れていると言え」となぜか大声を出す箇所くらいである。

いったいこの編集はどういうことなのか。作中では説明されない二人の関係を、前後の状況に合いそうなストーリーで補ってみようーー久保の亡き夫と南原とは戦友だった。前線まで夫を追ってきた久保は、戦況のためか経済的事情ゆえか内地に戻れず、止むを得ず娼婦になり、そういう彼女を援助するうちに南原は彼女に惹かれるようになった。しかしこの程度の話なら、第三者の証言を1分入れれば済むことだ。なぜそういう手間さえ省かれているのだろうか。夫の墓に花を手向ける久保と安藤の出会いや、安藤を追って、爆破された橋とともに急流に飲み込まれてしまう久保の最後などの場面を踏まえると、安藤と久保の間にも惹かれあう感情があったと見るべきだろう。すると安藤、久保、南原の間にはきわめて微妙な三角関係が成り立っていたことになる。彼らの関係をいっさい言語化せず、映像の編集だけで見せていることが、このエピソードの鮮烈さの理由である。むしろ台詞で説明するのは冗長という判断が働いていたと考えていいだろう。

このように、今見た二つのエピソードは、本作がほとんどストーリー性に関心を払っておらず、もっぱらショットと編集に傾注していることを明らかにしている。しかも個々のショットには60年代後半の加藤作品に見られるあの「美意識」がほとんど認められない(やはり安藤昇と組んで東映で撮った次作『懲役十八年』は、一転して強烈な美意識に貫かれた緊迫した作品に仕上がっている)。この理由として、安藤昇のプロダクションという財政的な事情はあるかもしれないが、低予算作品だからといって1966年の加藤泰が手を抜くとは考えられない。本作で監督は、自分がそれまでに完成させた様式をあえてカッコに括ってみたのではないだろうか。加藤泰の様式が頂点に達しつつあったこの時期に、それを自らぶち壊すかのような作品が制作されたのは驚くべきことだ。『炎のごとく』にも、それまでに達成された様式的完成をものともしない新しさがある。わたしは『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』にも、同種の新しさを認める。完成度の点では文句をつけるところがあるかもしれないが、加藤泰のフィルモグラフィーをたどっていく上で、見過ごすことのできない作品である。

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