オリヴェイラ『フランシスカ』再論

オリヴェイラ『フランシスカ』(1981)は、今年7月13日に日本初公開された。翌日書いたエントリーがこれである――「オリヴェイラ『フランシスカ』」http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/?p=4941

約2カ月後、川崎市市民ミュージアムのオリヴェイラ特集(「永遠のオリヴェイラ Parte1」の一環)で本作は再上映された。このうちわたしは9月25日の回を見た。ようやく2度目である。オリヴェイラを代表する作品の一つであり、現代の映画制作に強い刺激をもたらし得るという評価に変わりはない。ただ本作には初見で内容を捉えるのがむずかしい描写がいくつかあり、この意味での発見があった。前のエントリーの補遺としてそれらの一つについて書いておく。

フランシスカ(ファニー)とマリアという姉妹の描き方についてである。二人の姿は、フィルム初めの約30分間、わざわざ観客から遠ざけられている――仮面で顔を隠して登場したり、男たちの会話を通して言及されるだけだったり、ロングショットでどちらがどちらかわからないように撮られたりすることによって。なぜこんなことをするのだろうか?

冒頭のポルトの仮面舞踏会の場面でジョゼ・アウグスト(以下J・A)は初めて姉妹と出会うが、二人はヴェネチア風のドミノマスク(目のまわりだけを隠す装飾つきのマスク)をかざしており、注意して見ていないとどちらがどちらかわからない(初見では二人が姉妹であることさえわからない)。2度見てようやくわたしは、「悲しいの?」とJ・Aに話しかけるのがマリアで、その右手奥に立ち、マスクを外して(マスクは自撮り棒のような柄でかざしているだけなので簡単に付け外しできる)、微笑んでいるほうがファニーだとわかった。

仮面舞踏会の場面の後しばらく姉妹は画面に登場せず、男たちの描写の中だけに間接的に現れる。たとえばカミーロから尋ねられてマリアとの交際を報告するJ・Aと、ややあってマリアへの恋慕が昂進し、食べ物さえ喉を通らない彼の様子が描かれる。そもそも「マリア」という名も、男たちのこれらの会話において初めて紹介されるので、本作の描写は、映像なりエピソードなりによって主人公を印象づけることから物語を始めるという手順をまったく無視している。

次に姉妹の姿が映るのは、J・Aとカミーロが馬に乗って彼女たちの様子を窺いに出かける場面においてである。ところがこのショットの姉妹はわざわざ遠くから撮られており、依然として観客にはファニーとマリアの区別がつかない。

このように初めの約30分、姉妹は観客に対して「正式に」紹介されさえしないのである。

オリヴェイラの作品には常識が通用しないと決まっているので、こういう手法について「なぜだ!」などと言うことがそもそもばかげているという意見もあろう。しかし、それを言ったら彼の作品に関して問いを立てることが無意味だということになりかねない。わたしはあえてなぜこんな描写をするのかという問いを立て、それに答えてみたい。

さてこの映画における男たち(J・Aとカミーロ)はバチあたりなほど身勝手である。知り合った後、マリアとは手紙のやり取りをするだけだったJ・Aは、彼女に惹かれてはいなかった。ところがこのどっちつかずの態度がマリアを刺激してしまい、やがてJ・A自身、マリアを恋するようになる。にもかかわらずカミーロがファニーに接近し始める(後述)と、J・Aは即座にマリアからファニーへ乗り換える。こう書くとあらすじをはしょっていると思われそうだから言っておくが、本当に一瞬で乗り換えるのである。

一方カミーロはカミーロで優柔不断な態度を取り続ける――ファニーに手を出したら「殺すぞ」と言ってJ・Aから脅されるとコインブラへ逃げ出してしまうばかりか、後先考えずにファニーと駆け落ちすると言い出したJ・Aを本気で止めようともしない。

男たちの姉妹に対する態度をまとめると、J・Aは姉妹のどっちでもよかった、カミーロは出来心でファニーに接近したが、J・Aに横取りされても黙ってやり過ごす程度の関心しかなかった、ということになる。書いていて脱力感を覚えるほどつまらない話である。わたしにはこんな話を映画にすることなど思いもよらない(本作には原作がある)。

しかしオリヴェイラはこの設定に対して、主人公の女を観客の目から遠ざけておくという合理的な解を与えた。何のためにこんなことをするのか、という先の問いに対するとりあえずの答は、男のきわめてあやふやな感情との関係を通して女を描くため、というものになる。つまり、J・Aにとって当初はマリアでもファニーでもよかったので、二人の区別がつかない撮り方をしたのであり、またカミーロのファニーに対する気持ちがまだ出来心に過ぎなかったから、ファニーを遠くから撮ったのである。

あたかもカミーロに対する嫉妬からのように、唐突にファニーとつきあい始めたJ・Aであったが、やがて心底彼女を愛してしまう(おそらくカミーロの策謀によってこの激しい愛は一度挫折するものの、死の床のファニーの姿とことばを通して、J・Aの彼女への愛は再びこの上ない強さを獲得する)。一方のカミーロも、J・Aとの関係に消耗しきったファニーを見るたびに、彼女への愛を断ち切ることができなくなっていく(ポルトのホテルのロビーで彼女のやつれた姿を見て涙するカミーロの後ろ姿のショット――彼が涙しているとわかるのは「そんなに泣くなら来なければいいのに」というファニーの台詞によってである――は感動的だ)。二人のファニーに対する愛が強まっていくのに応じて、作中のファニーの姿も不可思議な生命感を増していく――彼女は病み衰え、目の下のくまも露わになっていくというのに。彼女の生命感が頂点に達するのは、死体になるときである。

つまり本作のファニーは、男たちのあやふやな感情の相関者として初めは観客の目からさえ遠ざけられているが、彼らの愛がかたちをなしてくることと並行して、明確な姿を取り始める。この映画のファニーは男たちの生き血を吸って初めて具体的なかたちを獲得する死者のように感じられる。

フィルムの始め30分間の姉妹に話を戻そう。仮面で顔を隠したり、男たちの会話を通して言及されるだけだったり、ロングショットでどちらがどちらかわからないように撮られたりしていた彼女たちが、それぞれはっきりと、識別できるように描写される最初のショットを振り返ってみたい。

それはカミーロとファニーが初めて会話する舞踏会の長回しである。このショットの始まりは、前景の控室の中央左にカミーロ、同右にJ・Aが立ち、画面左手奥に盛装の男女がダンスに興じている大広間が小さく映るという構図だ。前景の控室には主人公の男二人の他に何人かの友人たちがいるので、左手奥の大広間の情景は壁と人物たちによって切り取られ、一見鏡の中のそれのように見える。また画面の右手、カミーロが視線を向けている方向には、観客の目に映らないオフの空間がある――これは彼がそちらに怒りのまなざしを向け、「やつの中傷は見過ごせない」という趣旨のことばを吐くことからわかる。というよりも、カミーロのこの視線はここから始まる長回しの展開の前段として、左手奥の大広間を鏡像に見せるための巧妙なしかけなのである。

カミーロは友人たちに制止され、右手のオフの空間には進まない。反対にカメラが左手に向かって動き始めると、さっきまで鏡のように見えていた空間は大広間であることがわかる。カメラはそのまま大広間に入って行き、踊っている男女の姿を捉え、レモン色のドレスの女性と淡いブルーのドレスの女性に迫って行く。ダンスが休止すると、画面奥にその二人が並ぶ。レモン色のほうが右側、少し手前左側にブルーの女性。J・Aはレモン色の女性に話しかけるが、二人の会話は聞こえない。いっぽうブルーのドレスの女性と話し始めるのはカミーロである。カメラは二人のバストショットになる。映画の中段以降、観客がファニー(フランシスカ)を識別できるようになってからこのシーンを想起するなら、このブルーのドレスの女性こそファニーである。言い換えれば、この場面で初めて彼女は「正式に」観客に紹介される。

二人はここで次のような会話を交わし、会話の後半は二度繰り返される(前のエントリーに書いた通り、重要な会話または台詞の反復は本作の構成上の特徴である。会話または台詞が繰り返される際、人物の動きが停止したり(カメラは回っている)、当初のショットに対する逆構図――180度反対側のポジションから撮られたショット――が提示されたりするが、ここでのカメラは二人を置いて大広間の奥に向かって動いていく)。

カミーロ「あの男に近づいてはいけない」
ファニー「どうして? あの人は友だちじゃないの」
C「友だちだが、真実は真実だ。あの男に近づいてはいけない」
F「どうして?」
C「魂がないんだ」
F「魂? 魂は来客用の椅子ではないわ。魂は…」
C「魂は?」
F「悪徳よ」
C「悪徳?」
F「純真さと無知を取り違えてはいけないわ」

(本当はもっと長い会話なので、この「再録」は不完全である。魂を「悪徳」とみなすファニーのコメントは後半の展開を見る上で重要なので、あえて書きとめておく。)

本題を続けよう。カメラはファニーを置き去りにして大広間の奥へ進んでいく。レモン色のドレスの女性(マリア)も画面から去り、カミーロ、J・A中心のショットになる。二人はわたしたちには見えないカメラの前景の女性の噂話を始める。男から男へ渡り歩きながら財をなした美女、ポルトの社交界の花形ラケルについてである。カメラは大広間の奥にさらに寄って行き、噂話を続けている二人の頭を越える――そこには大きな横長の鏡があり、男たちに囲まれたラケルの姿が映る。

つまりこの舞踏会の一連のできごとは以下の手順で示されている――当初は鏡像のように見えていた大広間に入ると、マリアとJ・A、およびファニーとカミーロのカップル(破綻または非成就を運命づけられたカップル)がほんの一瞬作られる。しかしそれらはすぐに解体されて、もとの男二人の組合せに戻り、続いて映像は「本物の」鏡の中のラケルの姿に移行する。

ラケルとJ・Aはこの後すぐにつきあい始め、二人の関係は彼とファニーの駆け落ち後も続く。すなわちこの舞踏会の段階で、J・Aはマリアとつきあっていながらラケルに関心を向け始めているわけだし、カミーロのファニーに対する忠告(「あの男に近づくな」「あいつには魂がない」)を介して、カミーロの意図とは反対にファニーとも接近しつつある。

この長回しについて、鏡のように見えた空間が本当は大広間で、その中を探索してみたら本物の鏡があった、という言い方をするのは不正確だろう。なぜなら大広間の中で起こるできごとは、J・Aとマリアの会話がまったく聞こえないのに対して、カミーロとファニーのそれは二度繰り返されるという奇妙な「屈折」を伴っているからである。重要なのは、この長回しにJ・Aが築いては崩す四者との関係(マリア、ファニー、ラケル、カミーロそれぞれとの関係)が予示的に映し出されていることだ。

しかもこの場面の中核をなすカミーロとファニーの対話は、J・Aに対するもっとも痛烈な批判であるとともに、それへの反論でもある。ファニーはいずれJ・Aへの愛のために魂を捨てることになり、そのようにして愛された彼のほうも、ついに魂という「悪徳」を脱するからだ(ラスト近くでJ・Aは、ファニーの心臓を前にして「人を愛するとは、地上に散らばった自らの肉体を探して生きること」だと言う)。

話が長くなったので、この場面に注目したそもそもの理由に戻ったほうがいいだろう。ファニーとマリアが本作最初の30分間、観客から遠ざけられているのはなぜか、というのが本稿の問いだった。とりあえずの答は、男たちのあやふやな感情の相関者として姉妹を描写するため、というものだった。もしこの解釈が妥当なら、ファニーとマリアが判明に描かれるときには、もう二人はあいまいな感情の対象ではないはずである。ところでいま見た舞踏会の長回しで、ファニーはもっぱらカミーロの対話者として捉えられている。そして、たしかに彼女はカミーロとの関係(対話)を通して判明さを獲得している。J・Aは依然マリアとラケルに注意を払っており、彼とファニーの関係はファニーとカミーロの対話に媒介されたものでしかない。

ではJ・Aとの関係でファニーの姿が際立ってくるショットはあるだろうか。オーウェン家の玄関のそれである。字幕にはそっけなく「ある日マリアを訪ねたジョゼ・アウグストは、ファニーと語らうカミーロの姿を認めた」とあり、続くショットは、玄関を入ってすぐのところに咲く花々をステッキで打ちすえるJ・Aの後ろ姿である。これを見たファニーは彼の行為を皮肉るように、バイロンの一節を暗誦する。なだめるように自分の腕を取ろうとするマリアを乱暴に突き返すJ・A。驚いて走り去るマリアを追うファニー。ここでショットは180度切り返され、ファニーの視点からもう一度花をステッキで打つJ・Aが捉えられるとともに、先の台詞が反復される。

J・Aは一瞬にしてマリアからファニーに乗り換える、と書いたのはこの場面のことである。しかもJ・Aの感情との関係で、ファニーの姿が明示されるのもこのショットにおいてだ。

以上のようなショットの撮り方と配置をふまえると、ファニーの映像的な位置価がJ・Aおよびカミーロとの関係で決められているという仮説も一定の根拠を持つ。

この同じ議論において、後半のマリアの描写も重要である。J・Aともカミーロとも密接な関係を持たない後半のマリアは、前半同様ほとんど姿のない存在だが、ポルトでJ・Aが再びファニーへの愛を確認する馬車のシーンでは、マリアもファニーとともに幻視されている。また後半マリアがJ・Aに送った手紙をめぐって夫婦が激しく口論する箇所も、その意味は作中で未解決(彼女が何を書き送ったのかは明らかにされない)とはいえ、少なくともマリアの役割の重要性を示唆しているとは言えるだろう。

初めは判明さを持たず、互いの識別さえつかなかった姉妹が、男たちとの関係の変化に応じてはっきり分離し、男の両方から愛される側(ファニー)が明確な映像となって現れてくるとともにその生命感を増していく。また姉妹の分離を示す二つのショット(舞踏会の長回しとオーウェン家の玄関の切り返し)には台詞の反復という徴が刻まれている。この手法は原作のいかにも小説らしい設定を映画に固有の表現に変換する上での、きわめて効果的かつ独創的な解決である。

 

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