映画の思考について、または『ざ・鬼太鼓座』について

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プラトンの対話篇『メノン』に出てくる有名なエピソードは次の通りである――ソクラテスは対話の相手に十二、三歳の少年を選び、三平方の定理をまだ教わっていない彼にいくつかのヒントを与えることを通じて、彼自身に独力でこの定理を再発見させる。ここからソクラテスは、人間の知識x(ここでは幾何学の定理という、アプリオリに真であることを正当化できる知識)が、xとして人から人に伝えられるのではなく、論理的な手続きに従いさえすれば独力で見出されると言う。つまりxは教えられるのではなく想起される。

このテクストでは、対話を構成する命題は、一定程度意味を限定された概念から組み立てられ、古典論理に従い、概念は他の概念と関係づけられ、命題は他の命題へ変形される。つまり対話は言表と論証の進行過程である。この過程において、ある種の思考が表現されていることは明らかであるように思われる。概念が取り上げられ、その意味するところが整理された上で、それらを組み合わせた命題が論理的に(主に三段論法に従って)変形され、妥当な結論に至るからである。ところで、テキストに表現されているこうした思考を、テキストの思考と呼ぶことに何か問題があるだろうか。

概念を関係づけたり命題を変形したりしているのはソクラテスと少年であり、対話を書いた著者プラトンだから、慣習に従えば考えているのはこれらの人々である。しかし、これらの人々の思考内容は『メノン』というテキストに記された言葉がなければ読者に伝わることはない。むしろテキスト内の言葉さえあれば、思考の伝達には十分である。

さらに次のことを付け加えるべきだろう。「著者」プラトンさえも、『メノン』のかの対話を書き記しながら論証の正当性を確認したはずだ。言い換えれば、頭の中にできあがっていた一連の対話をそのまま言葉に変換したわけではなく、対話を通じて概念と命題を検討しながら論証を進めたのである。プラトンに従えば、このような思考過程も真なる知識を呼び出す一種の想起であるが、この主張が妥当であるかどうかを別としても、人が言葉を記しながら(一般化すれば記号を操作しながら)思考するという事実に違いはあるまい。そうであるならば、テクストに書き記された言葉も思考なのであり、言葉によって定着され得る「観念」の運動のようなものだけを思考として特権化する理由はない。わたしはもちろん記号化以前の「アイデア」の存在や価値を否定する者ではない。そうではなくて、思考をテクストの彼方に求める態度は思考を神秘化していると言いたいだけである。

したがって、『メノン』のかの対話は言葉という記号によって間接的に思考を表現しているというより、端的に思考していると言うべきである。数学の論文を想起しよう。定義された概念と構成された式と式の変形という記号過程を指して思考であると言うことに反対する人はいないはずだ。数式の「含意」、つまり数式という記号によって表現される意味にこそ思考がある、という反論に対しては、わたしはそれをも思考と呼ぶことにやぶさかではないが、そうした含意以前にまずテクストが思考していること、この事実に関して記号表現と意味内容を分離する理由などないという点を確認しておきたい。

日常言語を用いたテクストは、数学論文に比べれば曖昧な要素を多く含むが、『メノン』のように思考の実例に他ならないテクストを想起すれば、使用される記号を問わず、テクストが一般的に思考の実践であることに変わりがないことは明らかである。ではこうしたテクストの思考という観点を、さらに一般化することはできないだろうか。

できるというのがわたしの考えである。音楽という、テクスト(すなわち楽譜という記号表現)を持ち得る表現形式を考えよう(持ち得る、と言う理由は、楽譜が音楽の必要条件ではないからである)。楽譜には音高・音の長さ・リズム・旋律・和声等々の指示があり、わたしたちはそこからたとえばリズムと旋律の反復とか異なる複数の旋律の重なりなど、音型の配置やそれらの関係を読み取ることができる。ところでいま楽譜の例をあげたのは、先に言及した言語テクストとの類似を見るのが容易だからである。楽譜を見なくても、わたしたちはサウンドイベントとしての音楽表現の中に、音型の配置と関係を聞き取ることができる――この曲は速い三拍子だ、さっきのメロディが戻ってきた、など。

さて、先に『メノン』の例からわたしが言語テクストの思考という主張をした根拠は、『メノン』が意味を限定された概念と、いくつかの命題から構成されていて、これらの間に論理的な関係が認められるということだった。もう少しわかりやすく言えば、『メノン』というテクストは人がものを考えるやり方の一例ないしモデルだということである。『メノン』を取り上げた理由は、対話という形式と提示されている論証が思考のモデルとして明快だからに過ぎない。同様の主張はカフカの『審判』によってもできるが、こちらのテクストの思考モデルは、『メノン』のそれほどわかりやすくはない。

音楽表現の基本的な構成要素(音高・音程・音の長さ等)はと言えば、概念同様、一定程度限定されている(言葉で表現される概念に比べ、はるかに判明である)。そしてこれらの構成要素の組み合わせから得られる音型(リズム・旋律・和声)はいくつかのパターンに分類でき、音型相互の関係も容易に認められる(たとえば同一性と差異性、類似性、調性の関連性、反復、変形等々)。西欧古典音楽について言えば、そこには体系化された規則さえあり、たとえばいくつかの和音の連なりはカデンツ(終止形)のルールに導かれて特定の和音へ収束する。先に見た言語テクストのような古典論理の規則にはもちろん従わないけれども、音楽表現にはそれ固有の規則が適用され得る。以上を根拠に、ここでも言語テキストと同様の主張をしてよいというのがわたしの意見である。つまり、ある種の音楽表現は思考である。

言語テクストが思考する、という主張までは受け入れるという人の中にも、音楽表現の思考といういまの主張を退ける人がいるだろうことは容易に予想できる。私見では、そういう人は慣習にとらわれているだけである。たしかに思考という言葉の濫用は有害だ。たんに言語表現とか音楽表現などと言えばすむことについてまで、ことさら思考などと言う必要はない。では言語や音楽について思考を持ち出すことにどんな意義があるのか。記号化されていない「アイデア」、「観念」の神秘化をやめるという意義である。記号が表現するものであるということに文句をつける人はいないだろう。問題は、その同じ記号が「たんに」表現するものだという思い込みである。これに対してわたしは、記号は表現すると「同時に」思考すると主張している。表現は思考内容を指示するとともに、それ自体思考内容でもあり得る、という言い古された主張を繰り返しているに過ぎない。

音楽表現が思考し得る、という事実に首肯していただけたなら、映像表現はどうだろうか。これが本節の主題である。結論を先に言うと、ある種の映像表現は思考する。

この結論は、先に論じた言語表現と音楽表現の場合と同様に容易に導けるが、多少問題になるのは映像表現における基本構成要素の同定が比較的むずかしいことかもしれない。ここでは映画を取り上げよう。単純化のため音楽と音響をかっこに入れることにすると、光の強弱・形態・色彩…といった抽象的な映像構成素を想起する人もいるだろう。しかし、映画の画面をこうした光学的な構成素に分解してもあまり意味はない。そんなものだけを見る観客はどこにもいないからである。音楽表現の場合には、音高とか音程といった音の物質的特性がダイレクトに近いかたちで聞き手に届くのに対して、映画の映像表現はいくつものレイヤーからなっており、わたしたちが鑑賞するのはしばしば上位の(あるいは表層の)、経験的な意味づけをほどこされたそれなのである。つまり、人物の形姿・容貌・表情・まなざし・身振り・身体的運動・風景のパターン等々。わたしは映画の記号として、あえてこういう上位のレイヤーを満たしている構成要素を取り上げたい。たしかにこれらは曖昧な概念である。わたしたちは画面に映し出された一人の人物のアップと、背景の風景とを合わせ見て、しばしばそこに形態と色彩のコンポジションを認めているからである。しかし、それでもわたしたちが経験的な意味のレイヤー(人物と風景とをその上で識別してしまう意味付与の認識パターン)を離れることはないだろう。

こうした「基本」構成要素を認めるとしても、それらの間の関係を、言語表現や音楽表現の場合のように明確化できるだろうか。経験的な意味づけのレイヤーを想定すると、むしろ容易にできるというのがわたしの解答である。映像の型としてたとえば顔のアップ、バストショット、フルショット、(風景の)ロングショット、二人の人物を交互に捉える切り返し等々を想定することが可能になるのは、わたしたちがすでに人物・表情・まなざし・風景といった基本要素を前提に画面を見ているからである。だからある人物の顔のアップが繰り返されれば、観客はそこに同一者の反復を認めるし、前半に登場した風景とは対照的な風景が後半に登場すれば、それらの間に少なくとも関連性を見出す。つまり映像の型の間には類型化可能な関係があり、そうした関係の間には一定のルールが見つかる場合も多い。したがって、言語表現や音楽表現の場合と同様、映像も思考できる。

注意してほしいことは、ここで言う映像の思考と、いわゆる映像が語るメッセージなるものとは別物だという点である。わたしが論じているのは一貫して記号表現そのものであり、記号表現の向こうにある(らしい)メッセージなどという幻影ではない。『メノン』について、わたしはたしかに「想起説」という命題を取り上げた。しかし、そこで問題にしたのは概念と命題の関係であって、あえて言うなら結論の「想起説」そのものはどうでもいいのである。同様に、ワーグナーの楽劇を構成するライトモティーフ群が何を表わしているのかといったこともどうでもよい。どうでもよくないのは、それらのモティーフがどう配置され、どう展開し、相互にどう関連づけられるのかということである。映画の場合もこれと同じであり、ある映像なり音声なりがどのように構成され、組み合わされ、相互に関係づけられ、配置されているか、これらを指してわたしは映画の思考と呼んでいる。映画作品を通して語られる物語なり主題なりの意義を否定するわけではないが、そういったものは本稿が論じている思考とはまったくの別物である。

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以上の議論は、どのような映像作品がどう思考するのかを具体的に示さなければ説得力を持たないだろう。そこで加藤泰『ざ・鬼太鼓座』を取り上げる。本作ほど映画の思考とは何かを明らかにする作品は少ないからである。本作は座員のパフォーマンス(たしかにそれ自体強烈な身体表現であり音楽表現である)のたんなる記録ではなく、身体と音楽の表現を記号として活用する思考である。というのは、本作に登場する個々のパフォーマンスは、インサートカットを介して切れ目なく結びつけられると同時に、各パフォーマンスの途中にも細かいカット割りとインサートカットが含まれ、全体として編集の織物になっているからである。ことは映像の編集に留まらない。太鼓や三味線が「生演奏」される場面でさえ、しばしばシンセサイザー(一柳慧)によるポストプロダクションが加えられている。しかもこうした編集の織物には支柱となる物語がほとんどない。たしかに作中で雪の佐渡を走る座員たちの姿が繰り返されたり、彼らの生活風景や会話の一端が示されたりはするので、それらを通して鬼太鼓座メンバーたちの生き方と表現のドキュメントを再構成することはできるだろう。しかし、フィルムそのものはそういう物語的収束点をいっさい提示していないことに注意してほしい(Akatukiyami氏の論考が指摘している「青春映画」としての結構も、通常の意味での物語の不在を前提に言われているからこそ重要である)。

本作品の記号は、通常の映画とは少し異なるレイヤー上にある。どういうことか。第一に、映像を構成する鬼太鼓座のパフォーマンスの特異性。太鼓や三味線を演奏する彼らの技術は超絶的であり、演奏に際して彼らの身体は普通の人間のそれとは異なる運動を示す。また「櫓のお七」という、文楽の様式を人間の身体で表現するパフォーマンスでは、お七を演じる女優は人形の動きを模倣し、そのまなざしを虚空にさまよわせる。彼女の背後には黒子たちが付き従い、その一挙手一投足を操っているかのように見える。ところがそのお七が、佐渡に実在するらしい大きな櫓を昇り始めると、黒子の手を離れて勝手に運動を始めてしまう――ただし人形の動きはそのままに。これらの映像を見るわたしたちは、人間の身体・容貌・表情から構成される経験的なレイヤーを一段降りなければならない。そこでは人間と人形の身体が区別されず、人々は普通の社会生活の様式を離れて踊り、歌い、太鼓を演奏し、金北山と日本海の荒波を背に走り、彩色のない柱を晒した神社、洞穴につながる橋、人影の少ない街路、あるいは対照的に七十年代的なアーケードなどでパフォーマンスを行なう。

第二に、これはAkatukiyami氏の指摘にもある通り、映し出される人物のまなざしの特異性。フィクション作品では、人物とカメラの視線が映像表現の重要な軸の一つとなる。またドキュメンタリー作品においても、人物は何かに視線を向けているし、会話の場合であれば互いに視線で何ごとかを語っている。もちろんドキュメンタリーのカメラは、できごとなり人物の動きなりにたいてい注意深く対峙している。ところが本作では、しばしばカメラはあらぬかたをさまよい(たとえば演奏の途中で人物の首筋のアップのカットが挿入されたり、万華鏡に映った花札が出てきたり、風景の中の人物のショットになったりする)、映し出されている人物たちも、特に楽器を演奏しているときには虚空を見つめている(「櫓のお七」が人形のまなざしであるのはもちろん、インサートショットに登場する和服の女性たちも具体的な視線の対象を持っていない)。

こうした一階下のレイヤーに並んだ映像の構成要素から、わたしたちは何か映像の型の間の関係を認めることができるだろうか。できるからこそわたしは本稿を書いているのである。加藤泰は、本作において繰り返し、舞を舞い、楽器を演奏する身体と顔(表情というより顔)を映し出し、それらを編集している。異なる演目間で、わたしたちはそこに現れる身体・顔・装い・運動の様式的な類似(たとえば筋肉の極度の緊張、リズムとの同調、虚空を見つめるまなざしならぬまなざし)と対照(その最大のものは躍動そのものと化す裸体に近い男たちと風景の中をさまよう和服の女たち)を目の当たりにすることになる。これを記号の配置と関係と言わずして何と言えばいいのか。このフィルムでは、身体・顔・まなざしならぬまなざし・音楽とりわけリズムが、通常の経験が形づくるのとは異なるレイヤー上の記号として提示され、こうした記号は物語形式にも記録形式にも収束することなく、独特の様式にのっとって配置され、関係づけられている。つまりこのフィルムは独自の仕方で思考している。

パーカッションに目がない人なら(わたしはその一人である)、本作を視聴するうち座員の叩き出すリズムにこちらの体ごと乗せられてしまうだろう。しかし、本作の思考を受け止める快感はそれ以上のものである。よけいな物語性がそぎ落とされている分、ここで展開する思考は抽象度が高く、それがもたらす快感は強烈である。

オープニング近くに、汽船がゆっくり船着き場に入ってくるのを通路手前から捉えた素晴らしいショットがある。カメラ位置と船に渡すタラップの高さに対して通路は少し低く、幅広のシネマスコープ画面に映し出された無人の通路は湾曲しているように見える。フィルムが進むうちに、いくつかの舞台(神社の廊下や橋、荒地を含む)に横並びになる座員たちのアングルと、先の船着き場のショットが響き合っているのがわかる(カモメが飛ぶ空とも)。櫓を昇るお七の垂直運動とは対比的だ。このように、本作ではいくつかの場面を支える構図も、演奏される演目を横断して呼応する関係にある。『ざ・鬼太鼓座』をたんなる記録作品として見てしまう過ちの理由は以上のようなものだ。

シナリオが重視される劇映画でも、物語るのとは別の仕方で、すなわち撮影と編集、美術と音楽を通して映画は思考できる。加藤泰こそ、劇映画のジャンルにおけるこのような思考の、最良の演出家の一人だった。本作はこの意味で加藤泰のフィルムであり、加藤諸作の中でも最高度の密度を持った作品である。

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