この映画のためにだけでなく

「すべての映画は演劇についての映画である。他の主題はない。(注)」(ジャック・リヴェット)

オリヴェイラ『フランシスカ』を特徴づける二重写しの表現は、この作品に特異的とみなされるべきか。それともオリヴェイラの諸作品を貫くもっと包括的な表現形式(オリヴェイラ様式とでも呼べるものの一つ)と関係づけられるべきか。わたしは後の立場を支持する。以下はその理由である。

『フランシスカ』の二重写しについては、すでに二つのエントリー記事で詳述した(本ブログのカテゴリー一覧で「マノエル・ド・オリヴェイラ」をクリックするか、本ブログの検索窓に「フランシスカ」を入力するとすぐに出てくる)。二重写しの表現とは以下のようなものである――ワンシーン・ワンショットの長回しの中で同じ台詞が二度繰り返される(冒頭の手紙のショット)、カメラが回り続けているのに人物の動きは停止し、映像に重なる台詞が先行する台詞の再現になる(海の見える室内に入って来たジョゼ・アウグストがきわめて冷たい態度でファニーを見つめるショット)、同じ場面を逆構図で連続して二度撮る(オーエン家の玄関でジョゼ・アウグストが花々を打ち据えるくだりと、ファニーの祭壇の前に立つジョゼ・アウグストの「愛」をめぐる長い語り)。こうした独特の表現がオリヴェイラの他の作品でも採用されたことがあるかどうか、わたしは知らない(わたしは彼のフィルモグラフィーの半分も見ていない)。本稿の主張は、二重写しの表現がオリヴェイラの他の作品に取り入れられたことがなかったとしても、それはオリヴェイラ作品を貫くある包括的な様式の一環と見て間違いないというものである。

オリヴェイラ作品を貫く包括的な様式の一つは、‟必ずしもその映画のためとは限らないパフォーマンスを撮る” ということである。ここでいうパフォーマンスは、通常の映画作品における演技を含み、それより広い外延を持つ。映画が演技の撮影であり得るのは当然であり、そうでなければ特に劇映画の制作は成り立たない。それだけでなく、ドキュメンタリーフィルムの場合でさえ、カメラを向けられた非俳優が演技をしている可能性はある。映画が作られていることがその場にいる人々に明らかなら、カメラはしばしばその作品用の演技を撮ることになろう。

これに対してオリヴェイラの多くの作品で、演技はそのフィルムのためになされるとは限らない。たとえば『春の劇』では、ポルトガルの寒村に伝わるキリスト受難劇を準備する村人たちのさまが撮影される。したがって被写体となる素人俳優たちは、まず自分たちの村の伝統演劇のために演じる。つまりカメラが捉えるのは、フィルムのための演技以前のパフォーマンスである。正確を期するために付言すべきは、『春の劇』ではフィルムの進行とともに受難劇の演技と映画のための演技とが入り混じっていくという事実だ。しかし、いまの議論にとっては以下の点を確認すれば十分である――『春の劇』に収められているパフォーマンスは必ずしも映画のための演技ではない。受難劇の演技とフィルムのための演技の混淆については取りあえず括弧に入れておく。

『春の劇』の冒頭には村の受難劇を見るために自動車でやって来た観光客の姿が映る。これを踏襲するように、冒頭観客の姿を映し出すのは『繻子の靴』と『カニバイシュ』である。この二作には前口上もあり、『繻子の靴』の場合は劇場に入って席に着いた観客たちを後部バルコニーから登場人物たちが舞台用のメイクと扮装で見下しさえする。ただしどちらの作品も文字通り舞台で演劇が上演されるわけではなく、あくまで各場面は劇映画の手法で撮影され、編集されている。とはいえこの二作が、撮影が進むそのフィルム以前に、自立的な構成を備えた演劇作品の上演を想定していることは明らかである。だから俳優たちは、映画と同時にクローデル作品またはジョアン・パエシュ作品のためにパフォーマンスを行う。このような表現形式をわたしはオリヴェイラ作品を貫く包括的な様式の一つとみなす。

これが「包括的」であることを明らかにするために、『アブラハム渓谷』と『神曲』を例に取ろう。『アブラハム渓谷』の世界は『ボヴァリー夫人』の枠組を借りてデザインされており、セシル・サンス・デ・アルバとレオノール・シルヴェイラ演じるエマは、このフィルムにおけるエマであると同時に、エマ・ボヴァリーと関係づけられた人物でもある。決定的なのは、デ・アルバ(少女時代のエマ)がフローベールの『ボヴァリー夫人』を読むショットと、シルヴェイラ(成長して社交界の男たちを惹きつけるようになったエマ)が「わたしはエマ・ボヴァリーではない」と断言する場面だ。なぜならこれらのパフォーマンスは、映画のための演技であると同時に、『ボヴァリー夫人』を指示する行為だからである。『神曲』の場合、いまの議論との関係で劇中劇構成を想起される読者もいるかもしれないが、わたしが取り上げるのはそれでなく、ピアニストとして作品世界に参加するマリア・ジョアン・ピレシュのパフォーマンスである。彼女は本作においてじっさいにピアニストとして演奏を披露している。すなわちピレシュは映画のためだけにでなく、音楽のためにパフォーマンスを行っている。とりわけ『神曲』ラスト、「ウィーンの謝肉祭の道化」のフィナーレの演奏は、いかなる意味でもフィルムに回収されはしない。こういう未回収の自立したパフォーマンスを擁しながら、それでも作品世界の統合が失われないことこそ、オリヴェイラ作品の驚異である。

必ずしもそのフィルムのためではないパフォーマンスを撮るという方法が、オリヴェイラの代表作に共通して認められることはすでに明らかだ。さて最後に示すべきは、『フランシスカ』の二重写しの表現がこうした様式の一環に他ならないということである。この点の論証は簡単だ。『フランシスカ』の俳優たちが、回り続けているカメラの前で動きを停め、後で重ねられるだろう台詞の反復のための時間を沈黙して過ごすとき、彼らは何をしているのかを考えるだけでよい。そのとき彼らは、この映画のために演技をしておらず、むしろ演技を中断している。もっと正確に言えば、彼らは『フランシスカ』という作品の制作過程を、作中で演技する俳優の位置からではなく、監督、カメラマンと同様の位置に立って観察している。つまり彼らのパフォーマンスは、たんに映画用の演技ではない。

こうして『フランシスカ』の二重写しの表現が捉えるパフォーマンスは、映画のためにだけ行われた演技ではなく、映画が制作しつつある世界を指示する行為であることがわかる。ふつうの映画製作の現場で、同じ場面が何度か撮り直される局面を想起してほしい。そこで俳優は映画のために自分にできる最上の演技を披露しようとするだろう。しかし、『フランシスカ』の現場では事情が異なる。同一の場面の別テイクがそのまま『フランシスカ』の世界を制作することになるからであり、あるいは演技を中断することがパフォーマンスの一部となるからである。

 

注 “tous les films sont sur le théâtre; il nʹy a pas dʹautre sujet”:J. RIVETTE, Cahiers du Cinéma n° 204, septembre 1968.

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