金井嘉彦「『ユリシーズ』の詩学」

金井嘉彦「『ユリシーズ』の詩学」(2011)を読む。

「映画の詩学」と題された第Ⅳ部は、『若き日の芸術家の肖像』と『ユリシーズ』とがどのように初期映画の表現形式(制作手法と上映形式)を取り入れているかを論じている。

『スティーヴン・ヒアロー』を『肖像』に書き換えた時、すでにジョイスは当時の映画の表現形式を自作の技法に取り込んでいたと金井は言う。第一に、特定の場面・時点を中心とする描写と登場人物に沿った視点がもたらす、叙述の直接性と臨場性。第二に図像的な描写がもたらすエピファニーの前景化。ジョイスにおけるエピファニーとは「言葉や身振りの通俗性にであれ、心の記憶の相にであれ、突然姿を現す精神的な意味」である以上、それは具体的なものやことの描写を抜きにしては成り立たない。金井は『スティーヴン・ヒアロー』から『肖像』への書き換えがもたらした重大な変化の一つに、豊かな図像性をあげる。「『肖像』に散りばめられたイメージによって、細やかな感情や印象が、図像的な、形あるものの世界に移されるという意味において、映像性の高められた『肖像』の世界を、スティーヴンは図像を読み解きながら生きる」(p. 197)。第三に、演劇にはできない映画独自の技法の踏襲。『肖像』において演劇は最高の芸術形式という評価を与えられているが、にもかかわらず本作品には演劇が使うことのできない手法が採用されている――クローズ・アップである(注1)。金井はここにも『肖像』における映画の影響の大きさを認める。

『肖像』と映画の関係を論じる本書の立場に関して特に重要なのは、新たな芸術形式を生み出そうとしていたartificer としてのジョイスの映画に対する態度が彼の小説作品にどう反映しているか、という問いである。

「映画と『肖像』との関係を論じる際に注意しなくてはならないことは、単に『肖像』の一部を取り出し、そこがいかに映画に似ているかを技術的、還元論的に論じるのでは不十分であるということである。目を向けるべきは、映画がすでに「芸術」の一分野になろうとしているときに、小説家であり劇作家であり詩人でもある、アーティスト(artist)としてのジョイスが、自らをダイダロスに重ね合わせながらこれまでにない芸術を生み出すアーティフィサー(artificer)であろうとしたときに、意識せざるを得なかった映画という表現形式が、自分を取り巻く世界を認識し・映し出す最もモダーンな方式として彼の作品の中にどのような形で吸収されているかであり、映画の手法も取り入れつつ、映画とは違う「芸術」としての小説という形式を『肖像』においていかに主張したか、である。」(pp. 192-193)

『ユリシーズ』と初期映画の手法の関係をめぐって、本書の指摘はさらに具体的になる。
1) 第6章、ディグナムの埋葬に向かう馬車から捉えられたダブリン市街の描写と、ファントム・ライド(乗り物にカメラを乗せて街の様子を撮影する手法)。
2) 第7章、見出しごとに区切られたナラティヴと、リーダー(映し出されている画面のできごとについて説明するインタータイトル)によって区切られたサイレント映画。金井は複数の挿話とこれに呼応するリーダーからなる一本のフィルムという形式以外に、複数の異なる短編フィルムの連続上映がモデルになっている可能性を指摘する。根拠は初期映画がしばしばそのように上映されていたこと、および第7章が取り上げている題材と初期の短編映画のそれとの間の共通点である。本書の二つの仮説はともに説得力があり、興味深い(注2)。
3) 第10章とアクチュアリティ・フィルム(日常の諸相を描く映画)。
4) 第11章とレスキューもの。この章には、酒場の中のできごとと、ダブリンの街路で起こるそれ(モリーのもとへ向かう色男ボイランと音叉を取りに戻る目の不自由な調律師)を並行して描くクロスカッティング(並行モンタージュ)の手法が見られるが、これは事件の現場と救出に向かう人々とを並行して描くレスキューもののそれと類似している。
5) 第12章と多ジャンル性。この章の特徴は時間の多層化と文体の多様性にあるが、初期映画も短い、多様なジャンルの作品を組み合わせて上映されることが多かった。
6) 第15章とトリック映画および幻影映画。

こうした注目すべき一連の指摘に留まらず、金井は『ユリシーズ』に認められる反映画性にも言及している(第17章と第18章は映画化はほとんど不可能である)。『ユリシーズ』が積極的に映画の表現形式を取り入れていることと、反対に映画にできないそれを開拓していることとは矛盾するだろうか? 金井の答は否である。

「『ユリシーズ』に存在する映画的でない章は、純粋に――ということがあり得るとして――映画的でない可能性もあるが、映画という芸術形式を意識するがゆえに、映画という芸術形式に対抗して小説の小説らしさを主張した章、あるいはもっと大きくいうのであれば、映画という芸術形式がある現代において、小説の可能な形、あるいはあるべき小説の形を示した章、小説がまだ芸術として生き残る価値があることを証明するための反映画的な章として考えてみる必要がある。その観点からすれば、映画的でないことは、必ずしも映画的でないことを意味するのではなく、逆説的に映画的であることを意味する可能性がある。」(p. 231)

なお本書巻末の参考文献一覧には多数の初期映画に関する資料が含まれており、このジャンル(初期映画)の比較的新しい研究成果が踏まえられている。わたしには教えられるところのきわめて多い研究だ。実は本書を奨めてくださったのは金井嘉彦先生ご自身である。この場を借りて金井先生に厚く御礼申し上げます。

1 クローズ・アップはすでにポーター「大列車強盗」(1903)に見られるが、グリフィス「網を繕う人」(1912)によって映画技法として確立された。いっぽう1916年に刊行された『若き日の芸術家の肖像』は、1904年のエッセイ「芸術家の肖像」を出発点に、1905年には『スティーヴン・ヒアロー』として改作され、1912-1913年頃最終的なかたちを取った。つまり『肖像』の長期にわたる制作年月は、映画の表現技法が確立される時期とほぼ一致している。

2 よく知られているように、ジョイスは1909年にダブリン初の映画館ヴォルタ座を開いた。

 

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