アポテオーズ

昨夜のエントリ「神々の名前」には、いま読んでいるベンヤミンの「ドイツ悲劇の根源」からの影響が丸見えである(梶芽衣子はさすがに関係ない)。しかしそれとは別に昨年から勉強を始めたラテン語のテキストに、ちょこちょこ文字通り神々の名前が登場することもああした取りとめのない記述のきっかけとなっている。毎日自動記述のようにイミフのポストをする必要もないのだが、何の気なしに書いた事柄が別の記事の内容と結びついていることを後で発見したりするのは、書き手にとっては興味深いのである。

今日はそのラテン語の授業で、ローマの礎を築いたロムルスのアポテオーズ(フランス語で神格化すること、転じて最高の栄誉という意味でも使われる)の話が出てきた。ロムルスは死後クィリーヌスという名で呼ばれ、ローマ市民から神として崇められる。もちろんそこにはローマ建国という偉業への崇敬があるけれども、彼の存在がそもそも尋常ではなかったようだ。近隣の住民を競技観戦に招いてはその中の処女たち略奪して戦争を引き起こし、連戦連勝でローマが発展したとか、最後は嵐の中に忽然と姿を消したとか、後生の作り話と言えばそれまでだが、神の似姿だったのかもと思わせるキャラクターであることは間違いない。

いっぽう現代映画の神話的キャラクターには、オーソン・ウェルズのようにどこで何をやっていたのかじっさいのところはよくわからない謎めいたタイプも含まれるけれども、梶芽衣子のように女囚さそりという理念を堂々と体現し、その美を永遠にフィルムに定着させている(シネパトス銀座で昨年見たフィルムはとても永遠とは言えない代物だったけれど)女優こそアポテオーズにふさわしいと思う。

話は変わるが、現代人は自分たちのちょっとおかしなところを症候として語るのが好きである。ヘンだから病理学というのはわかりやすい。しかし、たとえば中二病という症候名が特徴的であるように、不特定多数をおおざっぱな内包で括る概念は粗雑すぎる。こうした症候名が人口に膾炙すると定義はますますあいまいになり、外延もいたずらに拡大する。心理や行動の傾向を症候として捉えると、それらの感染や流行に関する疫学的な探求も容易になるかもしれないから、症候の発見という試みを私は否定しない。でもどうせ同じ遊び心なら、病気を見つけるよりも神々を見つけるほうがいい。概念を作るよりも理念を見出すほうがいい。

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