応亮(イン・リャン)の短編映画(2008-16)

中国の若手映画作家、応亮(イン・リャン)の短編4作品がアテネフランセで上映された(クリス・フジワラの「現代映画とは何か?」の一環として)。洗練された映画的形式と、日常生活を貫く政治的暴力の生々しい表現を両立させる力量に感嘆した。

「薬」(2009年、白黒)冒頭のいくつかのショット(練炭を火鉢にくべ、そこに鍋を乗せる手のアップ、火鉢が置かれた部屋で立ち働く少女を玄関の方向から見るショット、180度の切り返しで、祖母が病で臥せっている奥の部屋から玄関とその向こうの通りを見るショット、祖母が床に転がす湯呑のアップ、火鉢のある部屋の棚から新しい湯呑を取る少女)は、一見古典映画の佇まいである。飾り気のない室内、少女が身に着けている質素な服、火鉢と薬の鍋、湯呑といった白黒の画面に見合った素材が鮮烈に捉えられ、かつ力強くカッティングされる。玄関側の部屋と奥の寝室だけの簡素な共同住宅の構造は、シンプルな数カットの編集と少女の動きによって明瞭に提示される。

通りでやかましく遊ぶ子どもらに、少女が「おばあちゃんが病気だからうるさくしないで」と呼びかけるショットは、少し湾曲した通りに沿って玄関が並ぶ平屋の共同住宅を右手に見て、通りを縦に深く捉えるローアングル。室内と屋外の情景を少女の言葉と振る舞いで繋ぎ、共同住宅の外観をローアングルのディープフォーカスで撮るところも、このように言葉にすると教科書的に感じられるだろうが、絶妙である。

通りでやかましく遊んでいた子どもらは「川で犬が泳いでいるぞ、見に行こう」と言って去る。一人が振り向きざま少女を遊びに誘うと、彼女は「おばあちゃんの薬を煎じているから」と断るが、次の一瞬、突風が玄関のドアを閉め、弾みで鍵がかかってしまう。

ここから映画は少女の行動とできごとの展開に沿って躍動的になる。鍵は玄関側のガラスのない格子窓越しに見えるテーブルの上にあるが、少女の手は届かない。たまたま通りにいた何人かの大人たちに玄関を開けてくれるよう訴える少女の頼みはことごとく拒絶される。彼らはそれぞれ自分の用事にかまけているようだが、それほど急を要するようには見えない。祖母の病気、夜勤で今夜は帰らない母、少女のささいな頼みごとにさえ耳を貸さない大人たちという、映画が繰り返し取り上げた素材があらためて鮮烈な仕方で示される。

少女に救いをもたらすのは近隣に住む少年である。彼もまた自分の父親に傘を届ける用事を理由に一度は少女の頼みを断った。しかも彼は、ほんの少しの間少女の言い分につきあって時間を浪費したため、父親からひどく殴られて帰ってくる。帰路相変わらずドアを開ける手立てがなく、火鉢の上で薬がどんどん煮詰まっていく様子を見て、少年がついに取った策は、玄関脇の木を登って平屋の住宅の屋上に昇り、裏口から祖母の寝ている奥の部屋に入って、気づかれぬように玄関を開けるというものだった――これは少年の一連の行動を通して観客に示される。この解決の鮮やかさは、冒頭の数カットで伏線として与えられていた住宅の構造を、運動の線によって結びつけているところにある。しかもこの運動の線は、映画の前半でわたしたちが見た、少女の頼みごとへの大人たちの拒絶の頑固さ、すなわち他人の問題のために動かぬことの対極にある。これは映画の形式に乗っ取った解決であり、かつ日常生活の中にある暴力性へのひとつの抵抗である。

ただし「薬」が取り上げた日常の中の暴力と、「アイ・ラブ・レイカーズ」(2008年)が描いた学校と家庭のそれには日付けがない。これに対して「慰問」(2009年)と近作「ある晴れた日」(原題「九月二十八日・晴」、2016年)とは、現代中国における具体的な暴力に取材している――これによって前2作に内在していた応亮の政治性がいっそう明確になった。

「慰問」は冒頭の記録映像を除いて、ワンシーン・ワンショットの作品である。満員の乗客を乗せた路線バスが川に転落した事故で夫と息子を失った婦人のもとに慰問にやってくる市長たちと、彼らを迎えるために葬儀の準備をする現場監督、TVのクルーらの振る舞いが描かれる。画面の両側に通路を挟んで粗末な共同住宅の入口があり、奥に祭壇らしきものがしつらえられた露天の空間が広がっている。手前のじめじめした狭い通路は光も弱いが、祭壇には日射しが降り注いでいる。通路に椅子がひとつ置かれ、観客に背を向けるかっこうで女性がそこに腰かけている(できごとの進行とともにこの女性が遺族だとわかる)。

現場監督はなぜか葬儀の準備に焦って大声をあげている。その理由は到着した市長に向かって部下たちとともに盛大な拍手を送ることで明らかになる――監督は遺族のために葬儀の手はずを整えていたのではなく、市長を出迎える場をセッティングしていただけなのである。遅刻して現れた坊主が形だけの読経をする中、監督たちの拍手で迎えられた市長一行は、女性に対して短いお悔やみの言葉をかけ、市の事故対策と遺族支援に関する長広舌を振るう。女性の返答は切れ切れの「謝謝」。続いて市長らは行列を作って共同住宅を見学する。彼らが発する言葉からわかるのは、一人だけ残された女性は単身者用住宅に移され、そこで生活保護を受けるということである。

市長たちが去ると、今度はTVクルーが取材の「仕上げ」にかかる。お決まりの遺族への質問に婦人が答える術もなく黙していると、インタビュアーの女性はあきらめたようにカメラを止めさせ、しばらくして婦人が「夫と息子は(雨漏りのする)屋根を修理することになっていました」と語り始めると、もう一度カメラを回させて、彼女の語りとは無関係な質問をする。

行政とメディアを含む体制の暴力が、事故をきっかけに一市民の生活に踏み込んでくるさまを描写することじたいについては、ありふれているという評価もあり得る。しかし映画作品の評価にあたって忘れるべきではないことは、主題なり素材なりがどのような形式によって表現されているかであり、またその作品がどのような系譜に位置づけられるかである。応亮監督が本作とほぼ同時期に撮った「アイ・ラブ・レイカーズ」と「薬」とは、作中のできごとに具体的な日付けがないとはいえ、共同住宅の生活、貧しい暮らし、家庭、学校などに滲み出てくる暴力を、強力かつ繊細な表現形式によって捉えている。「慰問」もこうした系譜に位置づけて見ることができるし、そのとき本作においてワンシーン・ワンカットという形式に圧縮された体制の暴力が、たしかに悲惨な事故のような非日常的契機によって顕在化するとしても、じっさいには日常生活に遍在していることが明瞭になる。

近作「ある晴れた日」は、こういう応亮の仕事の特徴がもっとも見事なかたちで現れている作品だ。香港のモダンなアパートに長年暮らしてきた元高等学校長の65歳男性は、3人の子どもがそれぞれ自立し、また最近妻に先立たれて独り暮らしをしていたが、持病の薬を間違えて服用するようになってから、高齢者用ホームへの入所を考えている。2014年9月のある晴れた日曜日、一番下の娘がやってくる。日曜の昼、父と外食する習慣なのだ。屋上のプライベートエリアでくつろいでいる父の周囲に、鉢植えがないことに気づいた娘がそれについて問うと、父はホームの件を少し話す。これを遮るようにインターフォンが鳴って、若い2人のボランティアが入ってくる。福祉サービスを受ける人たちにインタビューし、記録映像を残している彼らの活動に、父はかつての教育者として協力することにしたのである。

いっぽう娘は、この日予定されているオキュパイ・セントラル主催の民主化要求デモに参加する予定でいる。デモ隊と警官隊のにらみ合いはこのところ緊張度を増しており、まさに一触即発の状態だった。彼女のケータイにも逐次仲間からメールが届くので、父の家にそう長居してはいられない。その彼女の前でボランティアたちのインタビューが始まり、図らずも一家の歴史と現況とが父の口から語られるのを聞くはめになる。

その場を抜け出し、メールの連絡を見て父の家を後にした彼女だったが、途中で考え直して引き返し、キッチンの材料を集めて簡単な手料理を作り始める――昔母が料理をしながら聴いていたショパンのカセットテープをかけて。ボランティアのインタビューを終えた父は、娘の様子を見て「クラシック音楽と料理。母さんのようだ」と漏らす。

食卓で娘の手料理を味わっていた父に、娘はインタビューに応じたこと、ホームへの入所を考えたことなどの理由を尋ね始める。教育者としての信念や最近独り暮らしが不安になってきた事情などを口にする父に、娘はその仕事のせいで、働き盛りのころの父と自分は顔を合わせることもめったになかったと非難する。少し休みたいと答えて、自室に引き上げてしまう父。残された娘はかつての自室(父の寝室の隣りにある)に行き、しばらくして父の寝顔をそっと見る。

できごとをこのようにただ書き留めるだけでは、本作がある種の情緒的な表現を持ち味にしているかのような誤解をもたらすおそれがある。監督と作品の名誉のために断っておくと、そのような印象を与えたとすればひとえにわたしの表現が拙いからである。じっさいには、以上のできごとは俳優2人のドライな演技、余分な説明を排するカット、シャープなアングルと繊細なカメラワークを通して提示されている。父親とその家族の「歴史」も、インタビューの中、および父娘の短い会話を通して断片的に示されるだけである(観客が再構成しない限り、先に要約したような「前史」は明確にならない)。香港の市民生活の中に侵入している政治的な危機と混乱も、そのものとしては明示されない。

にもかかわらず、この短編作品がわたしたちにもたらす政治的な暴力の生々しさは圧倒的であり、父娘の今日に至る生活と現在の政治状況との密接な関わりが、父と娘双方の振る舞いを通して如実に表現されている点も驚異である。たとえば娘から、学生たちのために家庭を犠牲にして働いてきたと非難される父は、娘が現在それに参加している民主化運動の他ならぬ担い手を育ててきたことが、彼の言葉と行動を通してわかる。個別に見ればあたかもホームドラマのひとコマのようなショットが、積み重ねられて非常に多くの情報を持ち始め、それが香港民主化運動の現在と結びついていることが明らかになる。

父の寝顔を垣間見た後、娘は居間のTVを通して、警官隊がデモ隊に向けて催涙弾を放ったことを知る。起きてきた父もそれを見て、激しい抗議の声をあげる。作品を構成する多くの線が交わるこの場面で、本作はひとつの像を結ぶ。ここに描かれた民主化デモは、物語と並行する背景ではない。この家庭には今に至るまでずっと香港の政治状況が浸透していた。日常生活と政治的な暴力とは並行するのでなく、常に同時にそこにある――応亮作品が一貫して描いているのはこういうことである。

 

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