サーク『眠りの館 Sleep, My Love』(1948)

ノワールの秀作。だがヒロイン、クローデット・コルベールが適役かと言えば疑問がある。夢遊病や妄想とは縁がなさそうな面持ちだからである。ヒロインに好意を持つ青年(ロバート・カミングス)が彼女の心の病について疑いを持つのは、そのオープンな明るさゆえなので、この点では意味のある配役かもしれない。しかしそれではどうして犯人は、はなから信用されない計画(「クローデット・コルベールが夢遊病? まさか」)を考えついたのか。愚かだったから。よろしい、そういうことにして先に進もう。

ハリウッド時代のサーク作品には、このヒロインでよいのかとはらはらするキャスティングがいくつかある。『天の許したもうものすべて』のジェイン・ワイマン、『風と共に散る』のローレン・バコール、『間奏曲』のジューン・アリスンなど。見終われば他の女優を想像しにくくなるので、そこが監督の手腕なのだろうが、サークがこの人たちを最初から望んで撮ったのかという点には疑問が残る。たとえば『風と共に散る』で石油王の娘を演じたドロシー・マローン(本作でアカデミー助演女優賞を受けて注目され、翌年やはりサーク監督作品『翼に賭ける命』でヒロインを努める)のような、ヒロインの座を脅かすほどの存在感を持つ若手の出演を想起してほしい。製作会社としては作品が当たる起爆剤は多い方がよいのだろうが、ベテラン女優がヒロインを演じる作品に、その人を食ってしまいかねない若手を起用することは監督にとってリスキーだろう。『眠りの館』にもそういう若手が登場する。ダフネを演じるヘイゼル・ブルックスである(ロッセン『ボディ・アンド・ソウル』(1947)のアリス役)。

『眠りの館』の場合、コルベールとブルックスは丸っきり対照的な役を演じる(前者はニューヨークの富裕層出身で、生家の豪邸に会社経営者の夫とともに暮らす妻、後者は場末の写真館に務める日の当たらないモデル、また物語の進行とともに二人は敵対関係にあることも明らかになる)。ではそれぞれ異なる持ち味を出し合って作品の出来に貢献しているかと言えば、私にはそうは思えない。ブルックスには存在感があるが、こんな女性が名もない写真館にくすぶっているとは信じがたいし、コルベールはコルベールであんなにお粗末な罠になぜあれほど簡単に落ちるのかわからない。

にもかかわらずこの映画は面白い。それも一見ミスキャストと感じられるクローデット・コルベールが面白いのである。冒頭の衝撃的な列車のショット(寝台車の個室でわれに帰ったヒロインが、対向して走ってくる列車のライトを窓越しに浴びる)。構図もカメラもみごとなのにかんじんのコルベールに切迫感がない。この列車で彼女はボストンに到着する。ニューヨークの自宅のベッドで就寝したはずの自分が、なぜ、どのようにして列車に乗ったのか、まったく記憶がない。ところが、心配しているだろう夫のもとへ帰るフライトでは、空港で知り合ったばかりの青年(カミングス)の話に夢中になり、ディナーの約束までする。コルベール演じるヒロイン以上に、見ている私たちの方が彼女の夢遊病を信じられなくなるが、ともあれ画面の中の幸福そうな彼女には魅力がある。

本作は最初の三分の一くらいで犯人をばらす構成になっている(なぜなら犯人の計画があまりにお粗末なので、おのずとばれるに決まっているからである)。よってこの先の記述にネタバレが少々含まれても問題はない。本作でコルベールが特に引き立つ場面は、自宅にメガネの男を迎え入れるところと、中国式結婚式のくだりとであろう。メガネの男は、犯人が彼女の狂気を証拠づけるために用意した「幻」なのだが、今そこで会話したばかりの人間をだれが自分の妄想などと思えるだろうか。コルベールはもちろんこれを否定する。「たしかに私はその人を見たの、さっきまでこの部屋にいたのよ」。こう訴える彼女には自分が妄想を抱いたという疑いなど微塵も感じられない。この影のなさ。明らかにこれは彼女の演技力の賜物ではなく、シナリオの欠陥による。だが、そんなことはどうでもいいではないか。コルベールの持ち味がしっかり捉えられてさえいれば。

中国式結婚式というのは、ロバート・カミングスの義理の弟の結婚式のことである。なぜここにニューヨークの中国系アメリカ人コミュニティの描写があるのかわからないが、魅力的な場面である。彼女は五加皮酒(メロンの皮から作られた酒)をたくさん飲み、新郎新婦と披露宴の列席者を祝福する。この振る舞いを見てカミングスは、彼女が心の病に侵されているという一部の人たちの言葉を疑い始める。コルベールの表情には、たしかにカミングスをしてそう思わせる説得力がある。ただしこれも彼女の演技の結果ではないのだが。

本作が優れたノワールである理由は、先述した衝撃的なオープニング(コルベールの表情を除く)から、写真館(すぐ裏の高架を走る列車のライトと音の扱いがとてもよい)、モデル=ダフネの登場、ダフネと犯人の密会、メガネの男の暗躍、犯人の計略に追い詰められていくコルベールなどの陰影に富む描写を経て、ニューヨークのコルベール邸の階段(サークならではの階段である)でのクライマックスへ進んでいく手際にある。実際、コルベールがあんなに幸福そうでなければ、この映画はもっと当たった可能性がある。しかし、立派なノワールでもあり愉快なコメディでもあるような映画は稀であろう。そんな作品はサークくらいにしか作れない。

 

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