成瀬巳喜男の音のつなぎについて

ショットをつないだり場面を転換したりする際、音を媒体にする編集手法は成瀬巳喜男作品を特徴づけるものである。たとえば物売りの声、豆腐屋のラッパ、夜回りの拍子木、通りに響いている三味線や歌声、風、雨、雷、落雪など、音と映像が同期することもあれば、音源は見えずに音だけが響いたり、音が映像に先行したり、場面が変わっても次のショットで前の場面の音がしばらく聞こえていたりすることもある。おなじみのちんどん屋のインサートショットも、ちんどん屋の演奏に関しては、こうした音のつなぎの延長上に位置づけることができる。

「稲妻」には引っ越し蕎麦を食べるシーンが2箇所あり(三浦光子の実家への引っ越しと、高峰秀子の世田谷の下宿への引っ越しの場面)、どちらも重要なので、私たちはこれらを蕎麦のつなぎと呼んでいる。蕎麦のつなぎは音のつなぎではないが、いま「稲妻」に言及するのは、本作がショット間に介在する音の巧みな扱いを示す例を複数含んでいるからだ。「稲妻」の小沢栄太郎は高峰に求婚しながらその姉とも関係している嫌らしい男で、スクーター(小型オートバイ)を乗り回している。高峰がその実家の2階を間借りしている女子大生と彼女の部屋で話をしていると、にわかにそのスクーターの音が聞こえてくる。小沢を蛇蝎のごとく嫌っている高峰は女子大生に居留守を使うように頼む。女子大生と小沢のツーショットを経て、再び2階のショットに戻る。ショットを媒介するこのスクーターの音が小沢の来訪を意味することがわかるように、フィルムの始めにはスクーターを間に置いて屋外で会話する小沢と高峰の姉のショットがある。また「稲妻」のピアノソロによるテーマ音楽は、先の女子大生がレコードで聴く曲でもあり、高峰が借りた世田谷の部屋の隣家の兄妹が演奏する曲でもある。テーマ音楽としての役割とは別に、後半の世田谷のシーンにおけるように、映画内のできごとの一部という役割をも負っている。そこでは流れるピアノの音、これを聴いている高峰、急に降り出す雨、(高峰の目に映る)隣家の庭に干しっぱなしの洗濯物、隣家の人に呼びかける高峰、中断されるピアノの音という順序でショットと音声が繋がれている。テーマ音楽がたんなる付帯音楽ではなく編集の構成要素となり、しかも演奏が中断されるこの趣向はおもしろい。

「稲妻」ラストの夕立ち、「驟雨」の驟雨、「流れる」の雷、「めし」と「山の音」の嵐(台風)などの描写は映像と音声の同期によって成り立ち(もちろん室内のショットでは屋外の雨や雷などが聞こえるが)、ショットを結ぶものというよりもそれ自体重要なショットだから、いま話題にしているショットをつなぐ媒体としての音とは異なる。しかし「あらくれ」の、庭木からどおっと雪が落ちるショットの場合、音と映像は競演していると見るべきである(この落雪音はたんなる効果音に留まらない独立性と強さを持っているからである)。本作の高峰秀子は兄(宮口精二)が残した借金のかた代わりに森雅之(その妻は長期入院して不在)の経営する旅館で働かされるはめになるが、その浴場の脱衣室で、突然現れた森から強引に情交を迫られる。驚いて後ずさる高峰を遠景に配して、ショット前景の木から雪が落ち、場面が変わる。この編集について、撮影を担当した玉井正夫は、「『あらくれ』の宿屋で雪がドサッと落ちるところがありますね。ちょうどキャメラの手前に落ちるでしょう。ああいうところは、その音との関係も考えてお撮りになります?」という質問に「そうですね」と答えている(蓮實重彦によるインタビュー、蓮實重彦・山根貞男編「成瀬巳喜男の世界へ」所収、p. 223)。このやり取りには、成瀬の音の扱いに関する重要な指摘が続く。

 

――成瀬巳喜男には雪とか雨とか、いろいろそういう季節の音があると思うんですが、『流れる』でしたか、雷がありましたね。

玉井 そうですね、あの方は風とか雨、そういう自然現象ですね、そういうものをふんだんに音の効果として入れますですね。ですから、画面が固定しておりますから、そういうものを入れて一つの絵のリズムを出そうと考えておられるんじゃないでしょうか。ですから、割と風の音だとか、雨の音だとか、そういうものをふんだんに入れていきますね。(同、p. 223-4)

 

音の効果が生み出す「絵のリズム」という指摘は重要だ。私はこのリズムが、映像と同期する付帯的な音声によってだけでなく、映像から少しずれて響く音や、単独で響く音などの、ショット間を媒介する音声によっても生み出されていると主張する。この点を意識して成瀬作品を鑑賞すると、いっそうそのおもしろさが増すのでお勧めだ。

戦前の代表作「妻よ薔薇のやうに」は、至るところに音楽が登場する楽しい作品で、音のつなぎもある。ヒロイン千葉早智子の伯父(藤原釜足)は、訪問した千葉に最近習い始めたという義太夫節(浄瑠璃の語り)を聞かせる。閉口している千葉の様子を気にも止めず、節回しに熱が入った藤原がとんとんと机を叩いて拍子を取ると、通りを行く人の打つ拍子木に同じ調子が移り、ショットは千葉宅に切り変わる。「妻よ薔薇のやうに」は戦後の成瀬作品よりも実験的なカメラワーク(垣根越しに室内をカメラの横移動で撮るショットなどもある)と編集を特徴とする。音声の扱いにも思い切った点があり、それが戦後作品の音の使い方を分析する上で参考になる。カメラワークや編集同様、音声の扱いも戦後作品では落ち着いたさりげないものに変わっていくので、大胆な手法を試していた戦前の例が成瀬的な音声の可能性を明らかにすると考えられるからである。「乙女ごゝろ三姉妹」では三味線の響きが通りに流れ、「鶴八鶴治郎」の2人の喧嘩は鶴次郎が三味線の節回しを歌って確認することから始まり、「歌行燈」では謡いの合いの手が自称名人を倒し、門付けの三味線と歌が複数のショットを貫いて流れ、ラストのシークエンスでは山田五十鈴の舞に花柳章太郎の謡いが重なる。音声のパフォーマンスはそれぞれ圧倒的であり、しばしば映像のパートナーという役割を踏み越えている。

今年6月26日、新文芸坐で澤登翠デビュー50周年記念という催しが開かれ、ほぼ満席の盛況だった。成瀬巳喜男のサイレント作品「夜ごとの夢」「君と別れて」が弁士つきで上映された。「夜ごとの夢」の語りを担当した片岡一郎氏は、開演に先立って次のような趣旨の非常に重要な指摘をされた。“この2作はともに1933年に撮られたが、すでにこの時期成瀬も小津もトーキーを撮ることを意識していた。シナリオにも演出にも音の響きを考えているふしがあり、弁士は過剰に語りの効果を狙うべきではない。字幕を読んでいるだけじゃねえかと思われるかもしれないが、この抑制には意味がある”、と。戦前のサイレント作品においてさえも、成瀬の編集に音が介在していることは、「君と別れて」の次の例を見ても明らかだ。芸者の置屋の夜の場面。ショットは次の順序で編集されている。通りを行く夜鳴きそば屋(屋台で中華そばを売って歩く商売)が吹くチャルメラ、置屋の一室でうたた寝している若い芸者、その手にそばの丼、そばを掬おうとして取り落とされる丼、はっと目覚めて手元に何もないことを確認する芸者。丼が現れて消えるまでは同一アングルのショットを重ねており、チャルメラを聞いた芸者が、お腹を空かせているのだろう、夢を見たというシチュエーションである。成瀬巳喜男はサイレント期からすでに、音の扱い方を研究していたことがわかる。

この2年ほどの間に、東宝によって戦後の成瀬作品が続々とDVD化され発売されていることは別のエントリーで述べた。その中に戦後第1作「浦島太郎の後衛」が含まれている。だれもが認める失敗作だが、どのような点が失敗なのだろうか。私は音声の扱い方を間違えている点と答える。本作の主人公は特異な叫びで敗戦直後の日本社会の矛盾を訴えてみせる(この発声にはフリもついている)。ラジオを通じて彼の叫びは日本中に伝播し、あるインチキ革新政党は宣伝のために彼を主幹に迎える。こう書くと一見音声が主役のようだが、下手な主役なのである。こんなふうに泥臭い音声が独り歩きする演出は、すでに見たような成瀬作品の細やかでリズミカルな音の編集からはほど遠い。とはいえ音で成功し、音で失敗するというのはさすが成瀬巳喜男である。

 

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