「フラワーズ・オブ・シャンハイ」の魅力について

「フラワーズ・オブ・シャンハイ」の侯孝賢は、長回しのテイクでそれぞれ異なる時間を内包したいくつかの場面を撮り、それらを組み合わせて個々の場面に還元できない作品の時間を作り出すというきわめてオーソドックスな方法を採っている。にもかかわらずこの方法の愚直な徹底を通じて、オーソドックスとは言い難い、驚くべき結果が生み出されている。長回しのショットによる時間の撮影、それらを組み合わせる際の絶妙な時間の配分、その結果立ち現れる、個々のショットに還元できない作中人物に固有の時間――「フラワーズ・オブ・シャンハイ」を特徴づけるこれら三種の時間が、どのような手法に由来し、相互にどう結びついて作用しているのかを確認することが、本稿の目的である。

直前のエントリーおよびこの記事は、2013年4月6日、9日の両日、神保町シアターで観たフィルムセンター所蔵のヴァージョンに基づいている。二週間ほど前に知人から教えられるまで、うかつにも私はこの映画の存在とこのたびの上映について知らなかった。本作で主演した羽田美智子さんへのインタビュー 〈注〉 によれば、フィルムセンター所蔵のフィルムは侯孝賢監督本人が寄贈されたもので、カンヌ映画祭で上映されたワールドプレミア版である(DVDに収録されている日本での劇場公開版よりも数分長いという)。この記事を書いている段階で私はまだDVDを見ていない。数日中にはそちらの内容を確かめた上で、さらにエントリーを追加するつもりである。

注 http://prenomh.com/prev/hhh-movie/talk/kataru3.htm

先のエントリーではフィルムセンター・ヴァージョンを構成する全42ショットを掲げた。正確にはショット1(宴会)の前に、作品の時代と舞台(19世紀末上海のイギリス租界にあった高級娼館)を紹介する短い文章が付されており、これは作品の時間構成にとって重要なので、全43ショットと言った方が妥当かもしれない。いずれにせよちょうど120分の本ヴァージョンが40数個という少ないショット数で構成されているということから、個々のショットを流れる時間の長さ(言い換えればカットの少なさ)は明らかであろう。ただし各ショットの長さは均一ではないし、前後のショットが密接に関連づけられていることもある。この作品を特徴づける時間の効果は、一場面をどの程度の長さで撮るか、また一場面を複数のショットのどのような組み合わせで構成するかによって生み出されている。

先に引用した羽田美智子さんの証言によれば、監督は役者に完成されたシナリオを示すことも、各場面の演技について細かい指示を出すこともなかった。計4箇所の宴会場面(ショット1、9、22、35・36。35・36の、トニー・レオンの広東行を祝う場面のみ2個の連続したショットから成る)の撮影では、役者たちはじっさいに卓を囲んで酒を飲み、遊びながら演じていたという。これらの場面は結果的に物語の枠組みをなし、作品を貫通する時間を観客に提示している点が重要である。

しかしながらショット1からして、観客の多くに冗長な印象を与えるかもしれないほどの長回しである。この冒頭の場面で、男たちはめいめいご指名の娼婦を、円卓を囲む自分の隣席というより背後と言った方がよい位置に就かせ、男どうしで酒を酌み交わしながら単調なジャンケンゲームに興じ、互いの近況を報じ合っている。カメラは左右にゆっくりパンしながら徐々に卓を回るように移動し、円卓のどの位置にどの人物が座っているかを観客に教える。その中で主人公の王(トニー・レオン)は一人浮かぬ顔で酒を飲んでいる。知人の一人が面白半分に彼の近況を語る――王は5年にわたって小紅(羽田美智子)の旦那であり、彼女が他の客を取ることはめったになかったにもかかわらず、つい最近恵貞(ウェイ・シャオホェイ)という別の娼婦を買った。これを知って腹を立てた小紅は、恵貞のところに赴いて彼女を殴ったという。物語は結局この三角関係を中心に推移する。冒頭の長いワンシーンで、われわれ現代の観客にはけっしておもしろいと思えないジャンケンゲームに興じる酔漢たちの姿に付き合わされながら、話の核心を明かされてしまうわけだから、考え方によっては(たとえば興行成績を優先するプロデューサーの立場からすれば)、このショットからして本作は破綻しているとも言える。しかし、私はこの場面を含めて周期的に登場する計4回の宴の場面こそ、本作の様式的統一にとって欠かせない枠組みであると考える。「フラワーズ・オブ・シャンハイ」は全篇骨董をしつらえたセットの室内で、役者の自由な演技を追う長回しのカメラによって構成されている。このスタイルが一貫しているからこそ、私たちが体験する時間はあれほど濃密なのである。

宴会の場面はそれ自体濃密な時間を内包しているが、同時に前後のエピソードをつないで新たな時間を生じさせ、推移させる役割をも負っている。ショット1が三角関係そのものを提示している点はすでに述べた。ショット9は双玉とシュウレンの出会いの場面である。ここで重要なのは、シュウレンが酒をこぼすことで、これは明らかにショット39における二人の破局(双玉は阿片入りの盃をシュウレンに無理強いし、シュウレンはそれを床に落とす)を先取りしている。ショット22は再び王の憂鬱を強調し、背景から聞こえる街中の不穏な出来事は、続くショット23-25での王の狂乱の予兆である(小紅と役者の関係を知った王は、続くショット26で恵貞を娶る決意をする)。そしてショット35・36は、それ自体王の広東行を告げるだけでなく、あまりにも哀切なショット37(本作全体の中心をなす小紅の不在のシーン、小紅を失い恵貞にも裏切られた王がかつての小紅の部屋で嘔吐し、呆然と水煙草をふかす場面)を導く役割を果たす。このように計4回再帰する宴会のショットは、冗長で陳腐なジャンケンゲームの執拗な長回しを通して、娼婦と男の関係そのものの没落の時間、登場人物に固有の時間を生み出す役割を果たすのである。

無意味な想定であるが、もし本作から宴会の場面を取り去ったとしたらどうであろう。王と小紅の、双玉とシュウレンの関係の没落という本筋はたしかに明確になったかもしれないが、われわれはそこにあれほど濃密な時間を感じることはできないだろう。ショット22の宴会における王のあの寂寥(隣に恵貞がいるにもかかわらず)、この宴会で酔い、階段を駆け上って小紅のもとにやってくるショット23の王のあの惑乱、そしてまさにこの不意打ちがもたらす小紅との関係の終わり(ショット25)という一連の場面が生成する時間は、作品の魅力の核心であると私は思う。

次に指摘したいのは、エピソードによって異なるショットの長さとつなぎ方の妙である。本作の始めの4分の1ほどは、4人の娼婦を順次紹介する構成になっている。この4人の中でミシェル・リー演じる翠鳳のみ、男との関係における没落の時間をでなく、娼婦としての成り上がりの時間を生きている。イントロダクションの場面に限らず、彼女が登場するたびに翠鳳の娼婦としての歴史が語られる一方(典型的なのは彼女が後輩を諭すショット11と彼女の部屋の女将が羅に翠鳳の身請けを勧めるショット20)、現在の場面は他のショットと比べて短く、より多くのショットをつないで構成されている。たとえば彼女が独立を果たすショット29-34は、本作では例外的に短めのワンシーン・ワンショットと時間軸上の連続的なつなぎ(ショット間に時間の飛躍がない)という構成を取っている。

これに対して本作の主要人物に固有の時間、すなわち男女関係の没落の時間(一般には腐れ縁という)を描き出す場面の執拗さは感動的である。王と小紅をとらえるショットはいずれも素晴らしいが、ここではショット16・17と、27・28を振り返ってみよう。

ショット16は、別の宴席で酔った王が、友人のホン(宴会の場面でいつもジャンケンゲームの音頭を取っている人)とともに小紅の部屋を訪れる場面である。例によって不機嫌な小紅の様子を見て、ホンは早々に引き揚げてしまい、女将は残された二人のために食事の用意をする。半開きの扉を中央に見る構図で、当初は引いて全景をとらえていたカメラは、少しずつ扉の右手奥に見える王と、さらには王の傍らに来た小紅の姿へと寄っていく。王は小紅に機嫌を直せと言い、小紅は自分は別に不機嫌ではないのだと答える。娼婦が相手であるとはいえ、典型的な三角関係にまつわる嫉妬の描写である。王は小紅を支えて立ち上がり、話があると言って彼女をベッドの傍らに連れて行き(カメラは即興的にそれを追う)、そして二人は抱擁する。暗転後のショット17は、打って変わってなごやかな二人が運ばれた粥を仲良く食べる場面。王は小紅のために粥を取り分けてやり、先に食べなさいと言う。この暗転は、作中唯一男女の関係を暗示するものであり、しかもこの後同じ親密さが二人を訪れることはない。

ショット27・28は、直前のショット26で恵貞との結婚を決め、そのまま小紅との関係を断ち切ろうとしていた王が、友人ホンに諭されて小紅と話し合うために彼女の部屋を訪れる場面である。27の冒頭は小紅の部屋の窓のアップで、そこからカメラは右に動いて三人の姿をとらえる。全篇室内シーンのみの本作で、かろうじて外光が映るのはこの箇所と、後は41冒頭の双珠の部屋の開け放たれた正午の窓(双玉の身請けが決まる場面)のみである。どちらの場面でも娼婦たちはこれを機に娼館を後にするわけで、娼館の外を暗示していると解釈することも可能だろう。ショット28の小紅は本当に哀切である。ショット15でかんざしを弄びつつ、阿片に火もつけてやらずに王を突き放していたあの態度はみじんもなく、白い衣装に包まれて「あんなに怒ったあなたを見たのは初めてです」「この体は母からもらったものですが、それ以外はすべてあなたが作ってくださいました。あなたが私を見捨てるのなら、私は死ぬしかありません」などと訴える。これに取り合うことなく水煙草をふかす王の姿は、小紅が去った同じ部屋でのそれ(ショット37)の先取りである。じっと動かぬ人物の前でカメラも立ち止まり、ただ役者の憔悴した表情をとらえ続けるこうしたショットが時間を現前させる。長回しのショットが内包する時間と、ショット間のつなぎによって生成される時間とが、関係の終わりに直面してなすすべもなく座す男女の姿の中に反映するのである。

最後にもう一つだけ本作を特徴づけるショット間のつなぎの例を指摘しておきたい。全42ショットのうち、本作には短いインサート・ショットが4つある。卓上で文字を書くショットと押印するショットとは、それぞれの場面の始まりまたは終わりを示すもので、それほど大きな役割を果たしているとは言えない。これに対してショット14および24は非常に重要である。というのは両者が異なる時間の系列を結びつける働きをしているからである。ショット14は恵貞を紹介する場面(かんざしの品定めの場面)に続く、卓上の翡翠色のかんざしのアップであり、続くショット15はかんざしを弄ぶ小紅の場面である。ショット14をもって冒頭の4人の娼婦を紹介する場面が終わり、続く15から事実上の本編が始まると見ることもできるで、このショットは転換点と言っていいだろう。王を介して二人の女性の立場がまさに交替しようとしており、王と小紅の関係は崩れ去って、近い将来やはり崩壊することになる王と恵貞の関係が始まるという意味で、二つの異なる時間の系列がここで接している。ショット24は、22の宴会で酔い、不意に小紅の部屋を訪れた王の気配に気づき、脱ぎ捨てた衣服を拾い集める小紅の寝室内の人物(小姓なのか小紅自身なのか、それとも小紅の相手の役者なのかは不明)をとらえる。前後のショットは王のいわば狂乱を映し出すものであり、その間に挿入された24は、この作品においてもっとも謎めいた(そして永遠に明かされることのない)小紅のもう一つの姿を印象づけている。

 

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