アレクサンダー・クルーゲの60年代作品について

今夕はクルーゲ75年の作品「過激なフェルディナント」を見てきた。今回の特集上映ではこの作品だけ再見である。3日続けてクルーゲを見て、この人には作品を小ぎれいにまとめる意図などみじんもないことがわかった。よく言えば妥協がない。悪く言えば観客無視である。たった3作を見た程度で、このドイツ映画の大恩人に対して軽々しい評価を下してはいけないので、以下の感想はあくまで暫定的なものにすぎないことをお断りした上で、昨日の続きを書いてみよう。

クルーゲの映画は、基本となる筋を構成するショットやシークエンスの合間に、ニュース映像、物語に直接関係のない人物の語り、漫画や絵画、格言風の字幕、引用文、オフの声によるナレーションなどを小気味よく(時として唐突に)ぽんぽん挟み、余分なエピソードを飛ばしながら展開していく。この意味でコラージュである。しかし、彼の編集には独特の一貫性(たえず映像がそこに立ち返っていく芯)があり、話の本筋から完全に遊離したショットとか、そういうショットがもたらす異化効果などを私は感じない。昨日「秋のドイツ」についての感想で触れたように、複数の監督がそれぞれの視点と手法で撮った素材さえも、クルーゲは一つの作品にまとめあげてしまう(「秋のドイツ」の場合は、明確なメッセージがあるので積極的にそうする理由がある)。一般に彼の作品がコラージュの手法を用いながら、芯のはっきりした構成を持つとしたら、その理由はまだ私にはわからない。しかし、わからないというだけではつまらないので、あえて仮説を出しておく。:ひょっとしたら彼の構想には、物語を要請する理由があるのかもしれない。

「サーカス小屋の芸人たち 処置なし(1968)」の原題は‘Die Artisten in der Zirkuskuppel:ratlos’で、「処置なし」と翻訳されている‘ratlos’には「手詰まり」というニュアンスがある。サーカス団の座長を務めてきた父が空中ブランコから墜落死した後、座長を継いだまだ若い一人娘のレニ(自らも空中ブランコ乗り)は、妥協抜きの出し物を作ろうとがんばる。しかし、スポンサーや仲間から自分の構想を批判されたり、返済不能の借金に苦しんだりするうちに、時流(サーカスもTVで楽しまれる時代)に逆らう困難をようやく認識し、文字通り手詰まり状態に追い込まれていく。これが基本の筋である。後半、ポンコツ機械仕掛けの神の介入により、レニは予期せぬ遺産を相続する。彼女は演出家になって、文芸部長(という字幕がついていたが、出し物のシナリオライターのことだろう)や宣伝部長らとの打ち合わせを経て、やってみたい演目が具体化されていき、そのうちのいくつかについてはリハーサルも行われる。しかしながら観客の目には(私だけかもしれないが)、その内容が面白いとはいっこうに思えない。たとえばメキシコ皇帝マクシミリアン打倒に向けて蜂起する民衆がサーカスに登場しなければならない理由はよくわからない。ともあれ団員たちはおろかレニ自身も、いろいろ試していくうちにあっけなくやる気をなくし、一座の資産を売却してみんなでテレビ局に入社してしまう!(この展開には私も唖然とした。普通なら入場料金の返却を求めるところであろう。)

こうした筋書きで展開する(というより撮っている監督自身も適当に話の接ぎ穂を接いでいる)基本のストーリーの合間に、いくつかのニュース映像(ドイツ語の「イエスタデイ」を伴うイントロダクションは39年のドイツ芸術の日――ヒトラーの閲兵の他に、第三帝国時代のサーカスのアトラクションなども交える――、アメリカのサーカス団を見舞った火事、60年代の偉大なサーカス団など)、絵画(メキシコの民衆蜂起や19世紀フランスのサーカスなどを描いたもの)、本筋と関係があるのかないのかわからない人物の語り(代表的なのはラストのヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」の筋について説明する人で、この映像にスタッフ紹介のクレジットがかぶると、ヴェネツィアの観客なら暴動を起こしてもおかしくないレベルである)、「レニは象を買った」「レニは資産を売り払ったらいくらになるか尋ねた」等々のぶっきらぼうなナレーション、シューマン、ショパン、ヴェルディ(「イル・トロヴァトーレ」のピアノ伴奏による冒頭のモチーフと有名な見張りの合唱は数回出てくる)らの音楽などが挿入される。それだけでなく、登場人物を捉えるショットのうちのいくつかは物語を語るというよりも突然ドキュメンタリーになってしまったかのような距離を持ち、映像はあっても声が聞えなかったり、カメラ目線で正面を向いて講義をしたり(レニが14歳の時以来彼女を愛人にしているブッシュ博士の講義はたいへんおもしろい)、サーカスの演目の稽古をしていたりする。以上の例から容易に想像していただける通り、この映画が物語的だと主張する人はほとんどいないと考えられる。

しかし、それならなぜクルーゲはもっと思い切って完全に基本の筋を破壊しなかったのだろう。上述のストーリーは、ニュー・ジャーマン・シネマを主唱したにもかかわらず、何をやっていいのかまだよく見えないクルーゲ自身の姿を描いている。だからレニとサーカス団をめぐる話の筋を壊してしまったら、それこそこの映画を撮る理由がなくなる。「秋のドイツ」のぶれない構成が、クルーゲのドイツ社会に対する強い危機意識にもとづいていたのと同様に、「サーカス小屋の芸人たち」においても、クルーゲはただ奔放に破壊的なコラージュをやりたいわけではない。ニュー・ジャーマン・シネマはどのような表現を目指すのか、それは資本主義との闘いをどのように組織するのか、そしてこの運動の将来はどうなるのか(もしかしたらこの運動の一部は資本主義に再び飲み込まれてしまうのではないか)といった問いがこの作品の中核にある。またこれらの問いへの解答がまだないということこそが、この映画のアクチュアリティを形成している。しかしこのアクチュアリティは、クルーゲが独自に自身の表現方法を切り開いて行く上での制約にもなるだろう。なぜなら彼には新しい「ドイツ映画」を撮るという義務が課せられているからである。一般に社会運動にコミットする人は、政治的・思想的な物語から離れることはできない。クルーゲの構想が物語を要請するのではないか、と先に述べた理由もここにある。

しかし、自分のやるべきことを模索し、手詰まりに陥るという一つの物語を、表現上のたんなる試行錯誤に終わらせるか、それとも一貫した構成にもとづいてとりあえず完結させるかの相違は大きい。私は「サーカス小屋の芸人たち」が「秋のドイツ」のような意味での完成度を持っているとは思わない。しかしけっして支離滅裂な作品だとも思わない。特にレニと一座がテレビ局に入り、いくつかの企画を成功させて出世していくくだりには、クルーゲの確信犯的な見識と冷徹な批判精神を認める(先にこのくだりについて唖然としたと書いたのは冗談)。「手詰まり」どころか、理念からの撤退・社会との妥協によってうまくいくさまをしゃあしゃあと描いているからである。ニュー・ジャーマン・シネマはどこへ向かうのかという問いに対して、いまはまだ自分にもわからないと言ってお茶を濁すのでなく、その堕落したかたちを描いてみせるこの終幕こそ、先に指摘したクルーゲの構成上の一貫性のよい証左である。そしてコラージュという表現手法についても、ランダムに手近な素材を散りばめるのでなく、自分が選んだ(または自分が選ばれた)物語にとって必要なものを選択するその手つきに、私はストイックさを感じる。登場人物が筋を無視してドキュメンタリー内的な存在となり、唐突に時局やサーカスなどについて語り出す箇所では、筋書き・プロットという意味での物語は無視されても、クルーゲが描かなければならないこの映画の目的という意味での物語の存在はむしろ明確になる。

「サーカス小屋の芸人たち」より2年前の1966年に、クルーゲは「昨日からの別れ」を撮っている。66年から68年は、「秋のドイツ」の契機となった左翼運動の先鋭化が生じた時節である。「昨日からの別れ」が、アニタの期待とは反対に再び監獄に戻る結末を描いているにせよ、この作品の無碍の明るさは「サーカス小屋の芸人たち」の明るさと性格を異にする。その理由の一つは、すべてを自分の意志でやっているとアニタが感じていることを映画が明示している点にある。この映画では、戦後ドイツ社会に対する批判は極小化されている。これは逆説ではない。たしかに東ドイツ出身のユダヤ系ドイツ人アニタを戦後西ドイツ社会はけっして受け入れないという物語は存在する。しかし「サーカス小屋の芸人たち」や「秋のドイツ」の場合とは異なり、こうした物語はクルーゲがこの作品を撮った目的などではないと私には思われる。理由は単純で、この作品はアニタを見つめることを狙って構成されているからである。

たとえばアニタが新しい街で新しい男と出会う場面。まずアニタ、次いで男の、それぞれ顔だけのアップである(切り返しではない)。顔のアップは「サーカス小屋の芸人たち」でも多用されているので、この時期のクルーゲにとって大切な手法だったのだろう(理由はわからないが、表現主義やベルイマンに関心があったのかもしれない)。「昨日からの別れ」の場合、顔のクロースアップは筋の上では場面の転換のために使われているが、たとえばナレーションや字幕で手短かに説明するという選択肢もあるわけで、カメラはアニタを見つめることに集中していると私は考えざるを得ない。

そしてあの逃避行の大詰めに出てくる早送りの望遠回転パン(公園のまわりを360度ぐるっと回るカメラに捉えられた、木々越しに見える孤独なアニタがとても美しく哀しい)、望遠で見上げるように撮られた橋を渡るアニタ、廃屋で一夜を明かすアニタ。あるいはもう一つの世界の溌剌とした彼女を描き出す、コマ落としと早送りのシークエンス(詩人のように野原を闊歩し、反逆者のように警官に銃を向け、机の上に広げた女の手をいたずら小僧のように踏んづけて去っていくアニタ)。これらの映像と対をなすのは、彼女の目あるいは心に映る廃墟の映像群である。ここにはパゾリーニがアントニオーニ作品をめぐって論じた自由間接話法(人物の視線が向けられる対象としての主観ショットでも、特定の人物の視点に従属しない客観ショットでもなく、事物や風景に人物の意識が滲み出しているかのように映像を加工したり、つないだりする手法)の表現が認められる(アニタが雑用係として働くホテルの支配人のアップに続く、無人のがらんとしたホテルのショットや、アニタが通りすがりに見る、取り壊される古い建物のショット等々)。

私はこの作品の中に、クルーゲがもし物語のくびきを離れて映画を撮るとしたら、彼にとってどんな表現が親和的なのか、という問いに対する答えを見出すことができると考える。先に見た顔のクロースアップの唐突さや、アニタの目に映る廃墟の映像の挿入などを想起すると、クルーゲのコラージュ的手法はおそらく彼にとって欠かせないものである。物語を語る手段としてわざわざ採用されたのではなく、彼が映画を制作する上でまず必要としたマニエールなのだろう。私はいま慣用にしたがってコラージュと書いたが、「昨日からの別れ」について言えば、絵画やクロースアップ、そして廃墟の映像などの挿入をコラージュと呼ぶのは不適当である。なぜならこの作品においては、アニタという若い女性の姿と行動、そして絵画の場合は彼女の関心を描くために、一見断片的と感じられるようなショットが集結しているからである。後の作品では、採択される映像のバラエティはもっと多様になり、同時にそれらの素材を凝集させる政治的な主題(物語)が明確になる。これに比べて「昨日からの別れ」は、個々のショットも原初的で荒削りであり、物語の支配もない。だからこそこの作品には、クルーゲのもっとも生々しい映画的関心と方法を見ることができる。

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