クルーゲの書法――「愛国女性」(1979)をめぐって

昨日のエントリーでは、クルーゲのコラージュ的手法とコラージュされた多様な素材に統一を与える物語の性質について、60-70年代の3作品(「昨日からの別れ(1966)」「サーカス小屋の芸人たち 処置なし(1968)」「秋のドイツ(1978)」)を検討し、次のような暫定的結論を得た。:1)クルーゲの映画にとってコラージュ的手法は必要不可欠である。2)ただし、彼の作品には同時代のドイツ社会や映画のあり方にコミットする物語という、もう一つの支柱がある。3)彼の作品に登場する物語は、時として(通常の意味での)プロットに対抗する(なぜなら彼の物語は、ドイツ社会の現状や映画の既存の表現を疑問視するものだから)。4)このためクルーゲが物語に強くこだわる場合ほどプロットは混乱する。5)彼のコラージュ的手法は、まさにこのようなプロットの混乱に見合ったものであり、筋書の安定を奪うことによって物語の存在を浮かび上がらせる役割を負う。

「昨日からの別れ」のような、ドイツ社会にコミットする物語よりも、若い女性の放浪を描くという純粋な映画的関心が先立つ作品では、コラージュされる素材が互いに浸透し合い、アトラクティヴなモンタージュに近づく(顔のアップは前後のショットとの関連性を失っていないし、挿入される絵画もアニタの関心と密接に結びついており、廃墟の風景は自由間接話法に則っている)。これに対して「サーカス小屋の芸人たち」や「秋のドイツ」のように、自身の語るべき物語をクルーゲが強く意識している時には、コラージュはその本来の機能(それぞれ独立した価値を持つ多様な素材を、語られるべき物語に向けて凝集させ、多様性と一貫性を両立させる役割)を取り戻す。

以上の仮説は、75年の「過激なフェルディナント」にも適用できる。この作品には先の3作品に見られるコラージュ的手法は目立たず、反対に風刺的なプロットが前面に出ている(元公安調査官フェルディナント・リーヘは、法の制約の下でみすみす不審者を取り逃してしまう警察の現状に飽き足らず、私企業のセキュリティ統括者に転職、部下をきびしく教育・訓練して理想の警備を実現しようとするが、そのファナティックな姿勢に危惧を抱いた上層部と対立し、ついには自ら違法行為に手を染めるだけでなく、その違法性がどんどんエスカレートしていく、というプロットである)。あらすじからも明らかなように、この作品にはプロットはあっても、政治や映画をめぐるアクチュアルな主題はほとんどない。つまり、物語があるとしてもそれはプロットの枠内に容易に回収され、両者は対立しないので、表現方法もオーソドックスになるのである。

さて25日でクルーゲ特集は4日目を迎えた。私は「愛国女性(1979)」と「感情の力(1983)」を見た。どちらも今まで考察してきたような観点から見て、きわめて興味深い作品である。とりわけ前者は、クルーゲほどの映画制作者(映画を撮るには芸術家であるだけでは不十分だ)が経験を積み、資金・スタッフ・時節に恵まれたとしても、一生に一本撮れるか撮れないかという傑作である。今回の特集上映は、クルーゲの映画制作の射程を知るためには貴重であり、この2作が取り上げられたことを喜びたい。

「愛国女性 Die Patriotin」はマーラーの交響曲を思わせる音楽的な映画である。クルーゲ特有の物語性は濃厚で、ゆえにプロットは解体され、コラージュ的手法は徹底している。主人公ガビはフランクフルトの歴史教師。彼女は連邦およびヘッセン州の歴史教育の方針と素材に疑問を抱いており、自ら歴史の資料を見出そうと努める(歴史教師ガビはすでに「秋のドイツ」のクルーゲ・パートに登場しており、本作は「秋のドイツ」と密接に結びついている)。その一貫として彼女は自宅のある建物の地下に研究室を設け、新たな資料の発見に夜ごと精を出すだけでなく、違法と知りつつシャベルを取って市内の随所で「発掘」に取り組んでいる。また彼女は社会民主党大会に赴き、自ら歴史の決定に立ち会おうと決意する。すなわち議員たちに働きかけて、空隙だらけの歴史教科書と資料の見直しを迫るのである。しかし彼女のこうした行動は、主任や同僚の意に沿わない。また生徒と親からも不満や懸念の声が出されている。あらすじはこんなところだが、以上の内容はきわめて多様な映像(記録映像とそれを模したもの、ガビのエピソードとは別種のフィクション、絵画、絵本、字幕等)の合間を縫って、断片化されて物語られる。

この作品が目指す物語は何か。ガビの行動にも現れている通り、歴史の探求である。歴史はどこに見出されるのか、歴史はだれによってどのように語られるのか、という問いは、20世紀のドイツの経験と密接に結びつくものであり、また歴史の記憶を動画と結びつけた映画にとっても本質的である。「サーカス小屋の芸人たち」の、現代のドイツにおいて映画に何ができるか、という問い同様、秋のドイツの経験を経てクルーゲが取り上げた、歴史をどこに見出すかという問いも、たしかに抽象的である。しかし、それが映像の集合と構成にたえず働きかけ、多様な素材に統一を与えるのなら、磁場のように機能する物語の意味を否定することはできないだろう。「愛国女性」においても、歴史の探求という物語はまさにその役割を負っている。

本作品は、手短かにガビを紹介するイントロダクションと、「膝」「地下壕の不発弾処理班」「党大会(社民党大会をガビが傍聴し、それと並行してガビが議員に陳情する場面である)」「死者慰霊日」「恋愛物語と歴史の関係」「クリスマスに近いある土曜日」「コンテクストの問題」というタイトルによって区分されるセクションからなる。ただしこれらのタイトルは直後の映像群をおおざっぱに指示するだけであり、時々挿入される他の字幕(できごとの説明や引用文等)との間に明確な区別はない。とはいえ「地下壕の不発弾処理班」のタイトルには45年のベルリンを舞台にした短いフィクションが続くだけでなく、さらにその後、大戦中のドイツ空爆の記録映像(おそらく米空軍によるもの)や、空爆に怯える親子のショットなど、タイトルと強く関連する素材がコラージュされるので、タイトル間を一種のパートとみなすことは妥当である。この視点を採って作品を見ていくと、複数パートにまたがっていくつかのモチーフが分割されて登場することが明らかになる(教員会議、ガビの発掘と地下室での研究、フランクフルトのデパートの日常(お人形の場面)と非日常(200人の若者の乱入と警官隊投入)、検事親子の口論とガビへの不満等々)。クルーゲ作品は、たとえコラージュによってプロットを分断していても、きわめて緻密に構成されているというのが私の意見だが、今あげた事実はその根拠になるだろう。また先にこの映画がマーラーの交響曲を思わせると述べたのも同じ理由による。マーラーは断片的なモチーフを緻密に組み合わせるだけでなく、楽章を越えてそれらを反復することで多様性と統一を両立させている。マーラーに限らず、近代音楽には多様な音素材を引用するコラージュの手法が顕著だが、クルーゲの技法にも多様な映像・音声素材を散りばめるだけでなく、それらの間に様式的な一貫性を与える特徴が際立っているのである。もちろん音楽の場合は、作曲家の構想がどんな思考にもとづいていたかを追求する必要などない。これに対して文学や映画では、言葉や映像が様式を形作るだけでなく何らかの言説をもたらすので、言葉や映像の組み合わせが生む美的表現に対しての余剰が生じてしまう。この点の評価は人さまざまだろうが、クルーゲのようにドイツ社会へのアクチュアルな関与を十分自覚している作り手の作品を見る上では、そうした余剰を積極的に受け止め、物語の機能を映画の構成要素として認める必要がある。

「愛国女性」のコラージュの多面性と美しさを言い表すだけの能力を私は持たない。ガビの紹介に続いて、スターリングラード攻防戦の記録映像を加工したショットが来る(このショットと「膝」の語りは、終章と言っていい「コンテクストの問題」の中盤で再現される)。ここに重なる音楽と「膝」の語り、続くドイツの古城の絵画と実写、地球と月の教育映像のような短いショット、ドイツの美しい野とそこに咲く白い花、空爆を受ける都市(後で登場する都市の映像との比較から推測するとフランクフルトだろう)というシークエンスは、これだけを取っても忘れえぬ表現である。マーラーの音楽が相互にほとんど関連のないモチーフを巧みな書法で結びつけていくのと同じく、本作冒頭のコラージュ(私はどちらかと言えばモンタージュと呼びたい)には映画に固有の完成された書法がある。

「愛国女性」のイントロダクションで、ガビは「ドイツの死者を敬う愛国者」と紹介されていた。「膝」のパート(イントロに続く第1章にあたる)において、この作品の物語の中核をなす印象深いエピソードが登場する。43年のスターリングラード攻防戦で戦死したヴィーラント兵長はその膝だけを残してこっぱみじんになった。この映画のナレーションは、文字通り残された「膝」が語るのだと「膝」自身が言うのである。彼(すなわち「膝」)によると、個人は全体の一部であり、膝は個人の一部である以上、膝もまた全体に属している。それだけではない。膝は死者であり、死者こそが歴史を知っている以上、膝には歴史を語る権利がある。こうして本作の物語の枠組みが設定される(この大枠は冒頭のパート「膝」と、最終パート「コンテクストの問題」によって各パートを挟み込む形を取る)。この間の多様なエピソードとショットとは、ガビの歴史資料探求という基本線を持ってはいるが、ガビが死者の語る歴史と出会うといった大団円はない。反対にガビは映画の終幕に至っても自分の求める歴史資料を見出すことはない。彼女はただ死者を敬い続けるだけなのである。プロットは断片化され、一見混乱しており、それがわかりやすい結末を迎えないことが、むしろこの作品の目指しているものが何かを示しているという理由はすでに明らかであろう。

「感情の力」には「愛国女性」の様式的完成を引き継ぐ側面と、それを果敢に破壊する側面とがある。この点については明日指摘したい。

アテネフランセ文化センターとドイツ文化センターに深甚の謝意を表わします。そしてできればさらに大規模なレトロスペクティヴを希望します。

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