クルーゲ「感情の力」とシュレーター「アイカ・カタパ」

クルーゲの「感情と力」(1983)を論じるにあたって、もう一人の主役を呼び出さなければならない。ヴェルナー・シュレーター、オペラ演出家にしてもっとも過激な映像制作者、マリア・カラスの信奉者、映画に破壊と創造を同時にもたらす人。クルーゲは32年、シュレーターは45年の生まれだが、二人は友人であり、映像制作にあたって強い影響を与え合った。東京ドイツ文化会館26日のクルーゲ特集では、シュレーターの長編第1作であり、それ以前の彼の映像作品の集大成、「アイカ・カタパ Eika Katappa」(1969)が上映された。「感情の力」を見る上で欠かすことのできない作品であり、両者を2日間で連続上映するとは本当に心にくい企画である。

「感情と力」について考える前提として、もう一度クルーゲのコラージュ的手法についてふりかえっておきたい。今回上映された作品の中で、クルーゲの書法がもっとも明瞭に現れているのは「愛国女性」である。そこでこの作品に沿って要約しよう。1)作品を構成する各パート(詳細は昨日のエントリー参照)ごとに、複数の、性格を異にする映像・音声素材を緻密にモンタージュする。これは独立した価値を持ったいくつかのモチーフを統一的な書法の下に結びつける、ワーグナー、マーラー、アルバン・ベルクらの音楽の構成にたとえられる。2)それだけでなく、パートの垣根を越えて、いくつかのエピソードが再現され、発展させられる。複数のパートに共通するこのようなエピソードは、共通の映像・音声素材を引き継ぐので、コラージュは1)で見たようなパート内の統一に留まらず、パートを越えた線を生み出すことになる。3)冒頭の「膝」と終幕の「コンテクストの問題」で、作品の基軸となるヴィーラント兵長の膝の語りが繰り返され、作品を貫く歴史の探求という主題が明らかにされる。この語りと映像(スターリングラード攻防戦)は、作中のすべての素材に一定の方向を与え、コラージュの大枠を作り出している。つまりクルーゲのコラージュを構成する素材の間には階層がある(この点を考慮すると、既存の「コラージュ」という概念は、クルーゲ作品において問い直されなければならないことも明らかであろう)。

以上のようなコラージュ的手法の特徴は、「愛国女性」以外の作品にも認められるが、3つの性格の配分は作品によって異なる。たとえば「昨日からの別れ」と「定めなき女の日々」では1)のモンタージュ的手法が際立ち、コラージュ素材の反復使用は限られている(「定めなき女の日々」では、ロスヴィータが政治的・社会的行動を開始する後半、ボーシャン社の工場(炎が見える場面)や、湖畔の情景が繰り返されるところに2)の性質の片鱗が見られる)。「サーカス小屋の芸人たち」にはパートと呼べるような明確な分節はない(あるいは断片化が徹底しているために分節過剰である)ので、パートを越えたコラージュ素材の反復・展開という上の定式を当てはめることはできないが、代わりに象のショットの繰り返しに代表される、全篇を貫く特異なコラージュ素材を認めることができる。問題は3)、すなわちクルーゲ的物語(プロットを断片化したり、破壊したりする原動力)に直結する、上位の階層をなすコラージュ素材である。私はまだクルーゲ作品のごく一部しか見ていないので、「愛国女性」の他に、「膝」のスターリングラード攻防戦+語り+音楽に匹敵するような求心的コラージュ素材を用いた例があるのかどうかわからない。「秋のドイツ」の場合、冒頭と終幕の葬儀の場面がこれに相当するが、この作品は葬儀の映像に触発されて制作されたと見るべきなので、この求心的コラージュ素材が、クルーゲ自身の創案から生じたと考えることには無理がある。あくまで推測だが、「秋のドイツ」でコラージュ素材間に階層を与え、ある素材に求心性を付与する試みを成功させた経験が、「愛国女性」の様式的完成をもたらしたと言えるかもしれない。

このようにクルーゲのコラージュ的手法は独自のものであるから、コラージュという既存の概念に依存するのはよいことではない。ゆえに私は、以上のような性質を持つクルーゲ固有の書法を、コルージュ Kolluge と呼ぶことを提案する(ウソです)。

本題に入ろう。「感情と力」には「愛国女性」の様式的完成を受け継ぐ側面と、この様式を破壊する側面とがある。前者については1)から3)のすべてが本作にあてはまることを指摘すれば十分である。「感情と力」は、オペラを生み出す(あるいはオペラによって生み出される)力はどのようなものか、そして社会内の普通の人間はこの力とどう関係しているかをめぐる考察である(ここに再びクルーゲ固有の物語の作用を認めることができる)。そこでこの作品を牽引する上位の階層に位置するコラージュ素材はと言えば、フランクフルト歌劇場を措いて他にない。「感情と力」という作品において、フランクフルト歌劇場の形態・構造・運動はその細部に至るまで描き尽くされ(オペラ歌手たちはあたかもオペラハウスという器官を構成する細胞のようである)、執拗に反復されるだけでなく、火災によって文字通り燃え上がりさえする。

では「愛国女性」に匹敵する書法を持つこの作品が、一方でクルーゲ独自の様式を破壊しているとはどういうことか。本作の問いの一つが、オペラの本質である感情の力は一般人とどう関係しているか、であることはすでに述べた。私がこう述べる根拠は、この作品がオペラハウスのドキュメンタリーなどではなく、オペラと関わりを持たない普通の人々が、オペラにおいて表出される感情の力をどのような状況でどのように発露するかについての考察になっているという事実にある。作中いくつかの断片的なフィクションが交互に描かれる。たとえば突然銃を取り出して自分の脚を撃ち、今度は銃口を夫に向ける妻(「昨日からの別れ」「定めなき女の日々」のアレクサンドラ・クルーゲ)、男に捨てられ自殺を図ったばかりの女を卑劣にも強姦する会社役員、強姦犯より自分を捨てた男を恨む女、結婚斡旋を半ば趣味にしているのに自ら結婚相談所に赴く女(この役を演じているのは「サーカス小屋の芸人たち」のレニであり、また「愛国女性」の歴史教師ガビでもあるハンネローレ・ホーガー。皺を伸ばすために洗濯ばさみを顔のわきにたくさんつけて結婚相談員と対面する場面は笑える)、金で買われて幸福を摑む娼婦、ダイヤモンドを闇で売りさばこうとする商人を殴り倒して品物を強奪するカップル等々。仮にこれらの素材がオペラ化されたとしてもまさに三文オペラにしかならないように思われるが、「イル・トロヴァトーレ」や「リゴレット」のプロットも考えてみればこれらと似たりよったりだから、私たちの日常に、オペラを動かすのと同質の感情の力が満ち溢れていることはたしかだと言ってよい。

「感情の力」においては、オペラハウスという有機体、シュレーター=クルーゲの定式によれば「感情の発電所」をめぐる一連のショットと、今例示した一般人の感情の力を描く複数のショット群の間に統一がほとんどない。これが「愛国女性」と袂を分かつ固有性である。「愛国女性」は、ひとえに様式的完成に対する私の好みゆえに、私には傑作としか考えられないのだが、コラージュ的手法内部の不均衡の存在を理由に、むしろ「感情の力」の方を推す人がいてもいっこうに不思議はない。

おそらくシュレーターなら、「愛国女性」でなく「感情の力」を取るだろう。というよりも、クルーゲ自身が、「感情の力」でシュレーターを取ったのである。もし昨日「アイカ・カタパ」を見なかったら、私はこの2作の類縁を知らずにクルーゲを論じてしまうところだった。「感情の力」はパルジファル序曲とフランクフルト市街の夜明けから始まる。前半、コラージュの素材として戦前の映画(オペラまたは神話に関わるもの)が複数用いられる。中でもフリッツ・ラングの「クリムヒルトの復讐」は、「アイカ・カタパ」を知らずに見ると、ラングへのオマージュかと思われるだろう(映画修業の初期にクルーゲはラングの制作現場を経験している)。しかし、「アイカ・カタパ」の主要な構成要素のひとつがクリムヒルトとジークフリートの物語であることを踏まえれば、オペラを主題に据えた「感情の力」が「クリムヒルトの復讐」を通じて参照した対象はシュレーター作品以外にないと私は思う。「アイカ・カタパ」の構成の詳細を書き始めたら眠れなくなるので今はしないが、シュレーターは怪人である。シュレーターのコラージュに統一を与える中心は存在せず、映像を凝集させる物語などもちろんない。「アイカ・カタパ」が69年に撮られてしまったことは、ニュー・ジャーマン・シネマにとっておそるべきことである。「サーカス小屋の芸人たち 処置なし」(1968)が、ドイツの映画はこれからどうなるのかという問いを表明していることは別のエントリーでくわしく述べた。その翌年に早くもシュレーターはそんなこと知るかよ、と返答しているのである。クルーゲにしてみれば、自分より10歳以上若い映画制作者が、音楽と映像の破壊的なコラージュを駆使した怪作を撮りあげているのを見て、生真面目にアクチュアルな主題を探求する自分のやり方に一瞬嫌気が差したはずである。

70年代のクルーゲは自分の道を歩んだ。しかしその過程で彼は「愛国女性」の方向でなく、シュレーターがやったようなより自由な方向へ進んでみたいという誘惑に駆られたのではないか。それでも「感情の力」のコラージュ的手法から、クルーゲ固有の秩序が失われてしまったわけではない。優れた芸術家は制作にあたっていつも受動的であり、オリジナリティと呼ばれるものさえ自分の選択結果ではない。クルーゲの書法もこの意味で独自である。本人の意向に関わらず、それは彼の作品に刻印されてしまうものなのかもしれない。

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