ワン・ビン『三姉妹』

3000mを越える高地のどこまでも開けた空間と、吹きつける強風を避けるために狭隘な谷間に作られた集落の窓のない土壁の家という、かたや光と視界の過剰、かたやそれらの過少の間で生活する4歳、6歳、10歳の三姉妹。母は彼女たちを捨てて家を出、父は出稼ぎのため稀にしか帰ってこない。三姉妹は同じ集落に住む祖父と、伯父一家の世話になりつつも、羊の放牧や洗濯など、日常の仕事のほとんどを自分たちの手でこなしている。

全編小編成のクルーで撮られたとはいえ、同時録音の音声のきめ細かさや、しばしば三姉妹の表情に近寄るカメラワーク(長女を背後から追っていたカメラが、次のショットで高原の斜面に腰かけた彼女の正面に回りこむシークエンスを参照)を考慮すると、彼女たちがクルーの存在を意識しなかったはずはなく、むしろしばしばうるさい連中と感じたはずだ。にもかかわらず、彼女たちが見せる表情の生々しさに驚く。三姉妹がクルーに対して、親しげなあるいは媚びた視線を向けることは皆無であり、たやすくはない暮らしに取り組む三姉妹の日常のリズムはほとんど壊されていないように思われる。

彼女たちのさまざまな表情は、私がそこで生活している社会や文化の文脈に置き換えることができないものばかりだ。以下とりあえず日本語の概念に翻訳して書くが、この試みは空虚であることをお断りしておく。

特に長女が見せる、焦り、もどかしさ、そして待機の表情に私はうたれる。夏の終わりに村に戻った父は、働きながら三姉妹を養うのは困難という理由で、妹二人だけを連れて町へ出稼ぎに行ってしまう。長女は口では平気を装うが、一人暮らしを始めてからは、自分のために作る料理といえば茹でた馬鈴薯くらいだ。羊を追う仕草も荒くなり、新調してもらったばかりのスニーカーで何度も地面を蹴る。こうした仕草の合間に見せる表情は、私たちが焦りや苛立ちなどと呼ぶそれと呼応しつつもそれとは異なる。少女らしい儚さとともに、常に静けさを失わない表情である。羊を追い、強風に吹かれ、ただ一人高原を歩く彼女が、カメラを置き去りにして中空を眺めやるショットにおいて捉えられたあの静謐。私たちの言葉であえて呼べば憧憬といったものに対応するかもしれない、彼女の表情の基底をなしているあの独特の静かさは、私には未知のものである。

もっと幼い妹たちも、カメラが長回しで彼女たちを捉えている時に、静かで強いまなざしを彼方の空間に向けることがある。下の二人はたいていふざけてじゃれあったり、けんかをして泣いたりしているのだが、その彼女たちにとっても、家出をしてしまった母のことは忘れられない。ラスト近く屋外の、次女と三女のショット。次女が気恥ずかしそうに「私のお母さんはこの世で一番素敵…」という意味の歌を口ずさむと、三女は甘えてほんとうに姉のスネをかじる。しかし、この時の気恥ずかしげな次女の表情にも、カメラに媚びる気配はまったくない。高原に長く暮らしてきた人々が培ったのだろう静謐さのトーンにおいて恥ずかしがっているのである。

長女の表情の中にある待機のニュアンスについては、うまく書ける気がしない。よって以下はあくまで試論である。私は三姉妹の表情に、無垢とか純粋さといったものを認めることができない。たとえば長女が学校で勉強する時に見せるあの生き生きとした表情には、村の外の世界への強い憧れを見ないわけにいかず、外部からやってくる何ものか、または自身が村を後にする可能性に対する期待が、彼女の中にあることをうかがわせる。この意味で彼女の待機の表情は、私たち観客の方を向いているように思える。私は今日この映画を東京の一等地の快適なミニシアターで、映画に通じた熱心な観客たちとともに見た。カメラが三姉妹の表情を捉えていた時には、彼女たちは自身の表情をそのようにして映画館で見る観客の存在を知ることはなかった。しかし、三姉妹は遠からずこうした村の外の世界について知る。ワン・ビン監督自身、カメラを携えてこの村の子どもの生活を撮りにいくことが何を意味するかについて、無自覚だったはずはない。私は長女の表情に見える待機のニュアンスを、自分を見ているあなたたちを私は見たい、という意味に解することができると思う。

三姉妹の表情を捉えそこなわないように慎重にカメラを回し、後日の編集に向かった監督の知力と胆力に敬服する。それぞれのショットが持つ力にうたれるのは当然のこととして、それ以上にこの作品を偉大なものにしている理由は、ドキュメンタリーとは何かということへの一つの解答を、長女のあの待機の表情を通して提示していることだと私は思う。

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