『東ベルリンから来た女』について

『東ベルリンから来た女』(2012年、原題 “Barbara”)は、過去と現在の間で引き裂かれる幽霊たちの姿を描いてきたクリスティアン・ペッツォルト Christian Petzold の従来の系譜に連なるとともに、そこに新たなモチーフを加える作品である。

過去と現在の間で引き裂かれる幽霊というモチーフを確認するために、ペッツォルトのこれまでの作品を振り返ってみよう。

『幻影』(2005年、原題は“Gespenster” すなわち『幽霊』)の主人公ニナは、グループホームに暮らす10代半ばの孤児である。彼女は親を知らず、過去について夢見がちで、創作を加えた日記のようなメモを書いている。ある日彼女は、グループホームが義務づけている公園の清掃作業中、自分より少し年上の少女トニと出会う。トニは公園で男たちに乱暴され、その直後公園に停めてあったトラックから盗みを働き、現場を見つかって追われていた。一部始終を目撃していたニナはトニを助ける。トニはニナとは対照的にもっぱら現在を生きることに関心と注意を向けている。彼女はニナをグループホームから連れ出し、いっしょに映画のオーディションを受けようという。彼女はオーディションで披露する安っぽい作り話をニナに吹き込み、2人で万引きして人前に出るための服を新調する。

第3の登場人物であるフランソワーズは、かつて自分の不注意のせいで幼い娘をベビーバギーごと連れ去られ、その後精神に失調をきたしている。悲劇の後ずっと娘を追い続け、成長していればその年ごろの少女に町で声をかけては、娘と同じあざを探すという不審な行動をやめられない。ニナとトニの万引きの直後、フランソワーズはニナと出会い、即座に娘の面影を見出す。親を知らないニナは、くるぶしにフランソワーズの言う通りのあざがあるのを確認して気を引かれるが、トニに促されその場を後にする。

オーディションではトニの作り話はいっこうに受けず、代わりを渋々引き受けたニナの即興(これはニナの日記の別バージョンで、トニとの出会いに創作を加えた物語である)が監督たちを魅了する。ここは『幻影』の核心をなす重要な場面で、トニの語り(現在だけを生きる彼女の創作はあまりに平板だ)が、過去に引き寄せられるニナの物語と交替し、それが2人を次の段階へ導く。

2人は監督の邸宅で催されるその夜のパーティに招かれる。パーティ会場の片隅で踊るニナとトニの姿を見て、監督は2人を自室に連れて行く。翌朝ニナは、ひとり監督の邸宅に取り残されていることを知る。監督はトニと寝るために彼女をどこかへ連れ去ってしまったのだ。仕方なくフランソワーズと出会った場所に戻ったニナは自分を探していたフランソワーズと再会する。娘の誘拐の事情を聞かされたニナはフランソワーズを実母かもしれないと思い始める。空腹のニナをフランソワーズは滞在中のホテルのレストランへ連れて行く。

2人を見たフランソワーズの夫は、妻が再び “発作” を起こし、他人を巻き込んだことを知る。ニナが孤児であるとは知らない彼は、彼女が金銭目当てでフランソワーズに取り入っているものと考え、金を渡して追い払おうとするが、フランソワーズを実母だと思い始めているニナはこれに抗議する。しかし、この時彼女にフランソワーズの夫から告げられたのは、誘拐された娘はすでに死んだということだった。ニナは自分がフランソワーズの妄想の中の幽霊にすぎなかったことを理解する。

この作品においてニナは、少なくとも以下の3つの点で現在を生きることに失敗している。1 グループホームから逃げ、トニから置き去りにされるエピソードが示しているように、自身が直面する状況に適応できないか、あるいはその状況に裏切られる。2 自身の創作が監督を魅了したにもかかわらず、監督はトニを選んだというエピソードが示しているように、過去についての自分の創造を現在に反映させることができない。3 フランソワーズの強烈な妄想に自身の過去を譲渡しかけて挫折するエピソードが示しているように、他人の過去の物語を前にして、自分の過去の物語に関する幻滅を味わっている。以上の通り『幻影』は、過去に引き寄せられるやり方を間違えた者が、現在を生きることにどのように失敗するかを容赦なく描いた作品である。ニナとトニのすれ違い(トニにとってニナはたまたま出会った道連れにすぎないのに、ニナはトニを愛してしまう)と、フランソワーズの激しい過去の物語に引き寄せられ、しかし幻滅するニナの姿とは、過去と現在の間で引き裂かれる幽霊の鮮烈な表現である。

もうひとりの幽霊は『イェラ』(2007年)の主人公 Yella である(『東ベルリンから来た女』の主人公 Barbara のニーナ・ホス Nina Hossが演じている)。この作品については物語の詳細を追わず、『幻影』とは別種の幽霊の姿を指摘するに留める。それは旧東ドイツの古い町、 Wittenberge とDessau である。この作品は、旧東ドイツの古都ヴィッテンバーゲに生まれ、ドイツ再統合後に会社の経営に失敗した同郷の夫を持つ女性が、北西ドイツの中心地ハノーファーで再起を図るものの、旧東ドイツのやはり古い町デッサウで起こったある出来事のために挫折する顛末を描いている(彼女の企ては実際には故郷ヴィッテンバーゲにおいてすでに頓挫しているのであるが)。この不思議な三都物語(Wittenberge-Hannover-Dessau はおおよそ正三角形を構成する位置関係にある)は、旧東ドイツのしがらみを脱し、旧西側の大都市に再起を賭けたひとりの女性が、再び旧東ドイツの古い町へ戻って行くという構成になっている(Dessau の蓄電池会社社長が最期を遂げる水辺は、同市内を流れるムルデ川が作ったものであり、そのムルデ川はエルベ川と合流する。そしてエルベ川は映画冒頭、Wittenberge でのあの事件の舞台である)。過去と現在の間で引き裂かれる幽霊のもうひとつの姿は、現代ドイツの都市そのものの関係にも見て取ることができる。『イェラ』は、ペッツォルトがドイツの歴史の中に棲む幽霊を取り上げた作品として重要である。

『東ドイツから来た女』が、過去と現在の間で引き裂かれる幽霊の系譜に連なるだけでなく、そこに新たなモチーフを付け加えているという本稿の主題に戻ろう。舞台は東ドイツの小さな町、ベルリンの壁が崩壊する 8年前である。主人公バルバラは、過去に生きることと現在に生きることの間で厳しい選択を迫られるという意味で、『幻影』において離ればなれになってしまったニナとトニの対立を、自身の中で先鋭化させた人物である。彼女は東ドイツで医学を学び、小児科医として余人にできない仕事をしている。本作において、小児科医という設定にはとても大きな意味がある。それはこの国の体制の下でもっとも弱く(子どもという意味で)、同時にもっとも強い(反逆者という意味で)存在を支える役割が小児科医の仕事にあるからである。たとえばトゥルガウの作業所(実態は体制への不適応者を抹殺する施設)を脱走したステラと、自殺未遂を図って脳に重大な損傷を負った少年のエピソード。彼らは体制不適応者であり、バルバラはその唯一といっていい守護者である。しかしながら東ドイツの体制は彼女を常に監視し、その仕事に重い制約を課している。ゆえに彼女は西側の恋人の手引きによってこの国を脱出し、自由な生活を手に入れることを願っている。つまりバルバラは、一方で東ドイツ(彼女を養った過去)で彼女にしかできない役割を果たす意義を認め、他方で恋人との自由な生活(西ドイツにおいて始まる現在)を希求している。過去と現在の間で引き裂かれる存在というモチーフが、ここでは東ドイツと西ドイツという異なる体制を前にした葛藤という歴史的な対応物を通じて描かれており、しかもそれが亡命の選択を迫られるバルバラという人物に具体化されているのである。

この作品の映像と音声の力は、それだけ取り上げても素晴らしいものである。なかでも終幕の海の光景は抜きん出ているが、トゥルガウの作業所を脱走したステラが重病にかかり、バルバラが勤務するクリニックに運ばれた時の、あたかもパルチザン同志が互いを識別し合うように、瞬時にバルバラとステラが惹かれ合うシークェンスや、自殺未遂を図った少年の恋人が無断で深夜に彼を見舞う場面などの緊張度は言葉にしにくい。ペッツォルト特有の切れのよいカットと、各ショットに充填された静かで激しいテンションは胸をうつ。

この作品が過去と現在の間で引き裂かれる存在をどのように描いているかについてはすでに述べた。しかし、バルバラに関して特に注意すべきは、彼女が幽霊にはならなかったということである。彼女の恋人は東西ドイツを行き来する、それなりに財力を持ったビシネスマンだが、おそらくは平凡な人間である。バルバラが西への亡命を果たし、“自由な” 国で彼との生活を始める時こそ、彼女が幽霊となる時であろう。この意味でバルバラは可能的な幽霊あるいは原幽霊である。彼女自身が亡命という選択に一度は賭けた以上、この表現が自分に与えられることをバルバラは忌避できない。

しかし、彼女の最終的な選択は東に残ることだった。西への亡命が正当であるための条件は、亡命者がたんなる安逸でなく、自由を求める、体制への反逆者であることだ。この条件にかなうのはバルバラではなく、ステラなのである。バルバラはステラが自宅に辿り着く前に、果たして自分の選択(亡命)は正しいのかについて自問していた。ステラの到来のいかんにかかわらず、バルバラ自身が東に留まる決断を下していたことは注目されるべきである。この意味で、彼女は原幽霊であるが、決断の後は実在する人間である。

本作がペッツォルト作品の従来の系譜を引き継ぐという理由は、過去と現在の間で引き裂かれる存在を新たな表現(東西ドイツの分裂が再統合前の東ドイツの人間にもたらした葛藤は、そのひとつである)によって形象化したことにある。しかし注目に値するのは、この形象化が幽霊の新たな姿(原幽霊)を生み出したことであり、また幽霊と人間の間の選択と、この選択を経た人間の実在を描き出したことである。

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