日活時代の清順特集(神保町シアター)が二週目に入った。どれを取っても強力な面白さ。欲が出て、つい残りの20本も見たくなる。この時期の制作現場をよく知るスタッフへのしつこいインタビュー本があったらなとも思う。というのはこの監督、相変わらず何を考えて撮っているのかわからないからである。演出も編集も素晴らしい。しかし、どこまで意図されたものなのか推測のしようがない。
「あしたのジョー」の不良(ということは純情)下町ローティーンの原型を描いていると言っていい「素ッ裸の年令」(59年)の場合。子役たちの演技が生きている(優等生のクラスメートの女の子や、パー子などの端役に至るまで、シナリオ段階でのキャラクター作りがうまいし、子役もじつに楽しげに演じている)ことも手伝って、どのショットも躍動している。ただそのつなぎ方にくせがある。清順監督の作品にぶっ飛びカットはむしろ普通だと言えるのかもしれないけれども、不思議な気分は残る。たとえば主人公の少年が住む長屋の隅のボロ家にPTA役員が訪ねてくる場面で、まず少年の父(かなりのお年)がへえこら頭を下げると、その背後に立つ少年のアップになって、「父ちゃんはそうやってなんでも謝りさえすればいいと思ってるんだ。でもこっちが正しければ謝ることなんかねえんだ。俺は謝らない!」という台詞の後、今度は突然長屋全体の俯瞰ショット(人物はいっさい映っていない)になる。少年の声があたりに響き渡り、その発言を天も支持していることを観客に告げ知らせる秀逸な編集だ。でも意外なインサートショットである。
もうひとつ例をあげる。本作の左朴全は天使そのもので、いくつかのエピソードを分割・配分して進行する脚本と編集において、物語の導き手となっている。先にあげた俯瞰ショットだけでなく、爆走するバイクの速度と力とに支配されている少年たち(赤木圭一郎を飲み込む運命が彼らの姿を集約している)の描き方、なかでも茫漠とした野原の上に彼らを映し出すロングショットの数々は、この作品に神話の印象を与える。左朴全はここで起こる出来事の目撃者であるばかりでなく、一種の予言者であろう。ラスト、主人公の少年と左とを顔正面のアップで交互に映す夕暮れの野原の場面の編集を振り返ろう。まず少年の顔の大写しが来て、しばらく置いてから左のそれが続くので、光のあたり具合に注意しない限り一瞬切り返しかと感じる。ところが次に少年の顔のアップに戻った後、彼がふっと右を(つまり左の方を)向くのである。この場面で実はふたりは並んで野原に座っている。並んだふたりの姿をシネマスコープの大画面いっぱいに収めたショットにおいて、この作品の神話的な印象は極点に達する。天使が前景に出、対話を通して主人公を導くからである。このような場面でふたりが向かい合っていることは不合理だろう(夕暮れ時の野原にいるので、向かい合うとどちらかの顔が影になる)。しかしそれならなぜこの箇所は切り返しのように編集されたのだろうか。清順のカン? そんな指摘はただの思考停止に過ぎない。
監督第一作「港の乾杯 勝利をわが手に」(56年)は、競馬の騎手として頭角を現し始めた青年の不運な恋の物語を軸に、元マドロスの一匹狼である兄と主人公の関係を合わせて描いた作品で、舞台は横浜である。港近くにあった横浜競馬場は第二次大戦中に閉鎖されており、本作の時代は戦後すぐだから、このマドロス+ジョッキー物を撮るにあたって、脚本(中川順夫、浦山桐郎)と監督(鈴木清太郎名義)は少し欲張った架空の横浜を想定したらしい。相変わらず(というより本作が第一作だから、はじめから、というべきか)無国籍風の舞台設定でありながら(競馬場の観客席からハンカチーフを振る恋人の姿や、ごろつき(芦田伸介、主人公の恋人は彼の情婦)が経営するナイトクラブの室内装飾など)、物語を大きく展開させる夜の駅舎の一連のショット(恋人を追って線路に続く階段を裸足で走る主人公、目立たないようにホームではなく改札を抜けたあたりに姿を隠している恋人、ふたりの不自然な別れの後、主人公をおんぶして階段を戻っていく兄)を見ていると、30年代の日本映画を思い出したりもする。多様な要素が整理されずに詰め込まれていることは否めない。
とはいえ自然光を生かした一連のロケ(港、競馬場の客席、厩舎、カップルがデートする公園の並木道等)と、労働者が集まる居酒屋と芦田伸介が経営する高級クラブという対照的なふたつのセットが交替する編集はとてもおもしろい。もちろんハンドカメラの移動を含むロケーション撮影と、無国籍風のセット撮影の組み合わせは清順のオリジナルではなく、50-60年代日活アクション作品の定番だが、この監督の破天荒な撮りっぷりは定番を新鮮に見せる。
たとえば「素ッ裸の年令」のバイクを馬に置き換えたようなスタジアムでの疾走(明らかに本職ジョッキーのスタントで撮られた走る馬のロングショットと、別撮りされた主人公の組合せからなるシークエンスはお世辞にもうまいとはいえないけれども)、勝利した主人公の意気揚々とした姿、その彼が見上げた客席最前列から立ち上がってハンカチーフを振る女(この場面で主人公はまだ女の名さえ知らない)の仰角ロングショットというつなぎは、男女の出会いの描き方としてはかなり風変わりだ。一方はジョッキー、他方は客席の女という関係には距離がありすぎ、本作の映像の組合せもその距離を強調しているからである。日常的にはこのような隔たりを越えてふたりがつきあい始めるのは困難であろう。ところがこの映画では、男がスタジアムから女を見上げ、女がハンカチーフを振るだけで道が開ける(出会いの後は別の困難が生じるが)。もともとこれはシナリオが準備したものであり、もし監督がその不自然な距離感を減らそうと思えば撮影と編集でいくらでもできる(たとえば男女の顔のアップを入れてつなげばよい)。そういう小手先の演出をいっさいやらず、ふたりがこれから立ち向かわなければならない距離と、それを越える結びつきとをぱっぱと撮っていくところがこの監督の持ち味なのであろう。プログラムピクチャーを量産していく中で考えすぎは禁物だし、カンにしたがって撮ったりつないだりした結果いいものができるということこそ、当時の映画監督に要求される才能だったことは事実だ。それでも客に媚びて説明的になったり、いわゆるリアリティを追求してシナリオを改変したりする人も多かったのだから、カットするたびに強烈な違和感をつくり出し、さらにはその違和感の積み重ねからひとつの世界を撮り上げてしまう清順という監督には舌を巻かざるを得ない。
その後の清順の傑作群から振り返って本作を持ち上げているのではないか、と言われれば、率直にその通りと答える。私も完成度の点で後年の代表作に匹敵するとは考えない。しかし、すでに清順作品を特徴づける編集技法が認められることは事実である。今回の特集上映では「悪魔の街」「浮草の宿」という同じく56年の作品が取り上げられるので、結論はそれらを見た後で書けばよいのだが、あいにく私はせっかちなのである。ここでは「暗黒街の美女」(58年)のある特徴的な編集を傍証に、こう主張する根拠をあげる。次に例示する編集が監督の意図的な選択によることは明白であろう。
舞台はマネキン製作所(2階は粘土でマネキンの型を作るアトリエ、1階はその型を焼成・彩色して製品化し、出荷する作業場で、マネキンを下ろすための昇降機がふたつのフロアを結んでいる)、シークエンスの概要は以下の通り。1 女が2階で作りたてのマネキンの乳房にダイアモンドを押し込んで隠す。2 2階で乱闘が起こり、昇降機のボタンが誤って押されたためにダイアモンドを隠したマネキンが1階に下ろされてしまう。3 1階の作業員たちがそのマネキンを焼成・彩色しにかかる。4 (前のショットから一定時間経過した後のショット。3との間に乱闘後のできごとを描いた別の系列のシークエンスがあるが、ここでは省略。)完成したマネキンを作業員が背後から抱き、乳房を両手で包んでいる。それを見た隣の作業員がすけべな文句を並べている。5 出荷されるマネキン――トラックの荷台に一体だけそのマネキンが載せられている。6 走り始めたトラックを後方から追跡する乗用車のフロントガラス越しにハンドカメラで撮られたマネキンの姿(実写映像であり、これでもかというくらい手ぶれしている)。
ここで注意してほしいかんじんの点は、2の乱闘の中心にいた人物(主人公)が、6のショットで乗用車を運転しているということである。上記の通り、3と4の間にはマネキンを商品化するのに必要な時間が経過しており、この間に乱闘も一応の終結を見て、主人公はその場を逃れている。しかし、どのようにして彼が出荷されたマネキンをダイアモンド入りのそれであると知ったのか、その説明はまったくない。これほど妙な編集が監督以外のだれかによってなされるはずはない(それができるのは清順に匹敵する変人だけだが、そんな人物が当時の映画界に存在しなかったことはすでに実証されている)。さて次に注意してほしい点は、このシークエンスがセットとロケをマネキンの移動によってつないでいることだ。整理すると、以上のぶっ飛びカットの特徴は次の通りである。ダイアモンドを乳房に隠したマネキンの移動を主軸とするシークエンスにおいて、乱闘現場(2階のセット)、日常的な作業場(1階のセット)、街路(ロケーション)という異なるタイプの空間が強引に結びつけられ、経過した時間およびこの間のできことは文字通り飛ばされる(説明抜きでカットされる)。あえて一般化すると(本当は余計なことであるが、「港の乾杯」がすでに清順作品の特徴を備えているという先の主張を正当化する準備作業としてやっておく)、清順のカットの特徴は、何らかの媒介によって異質な空間をつなぎ、途中の時間やできごとを飛ばしてしまうところにある。
しかし、ダイアモンドなり銃なり麻薬なりの媒介によって日常経験では無関係に思われる空間がつながり、途中起こったできごとは大胆に無視される、そんなことは清順作品に限ったことではなく、映画の常道なのではないか。清順の場合、その“いわゆる常道”のタガがはずれていることが特異なのである(アクション作品という形式をぎりぎり維持しつつ、どの程度までダガをはずし得るかについては、「殺しの烙印」(67年)を想起されたい)。これを程度の問題と言って片づけてしまうなら、芸術の様式を議論することはできないだろう。オペラと歌舞伎は似たようなもので程度の違いしかない、という類の話になるからである。
長くなったのでとりあえずの結論に移りたい。論証されるべきは、「港の乾杯」がすでに清順作品の固有性(今見たばかりの編集技法)を備えているということであった。ふたりが出会う競馬場の場面についてはすでに述べた通りである。女はこの後、男をナイトクラブに誘い、男も即座に招待を受ける。ナイトクラブの場面でのふたりの装いは、先の競馬場での身なり(男は当然乗馬服、女はコートと帽子)とはまったく異なり、男はスーツ、女はイブニングドレス姿である。ここで注目したいのは、二つの異質な空間(前者はロケ、後者は作り物っぽさを際立たせたセット)を接近させるような仲介物が、当のカップル以外には何もないということだ。ふたりは途中のエピソードなしに突然変身し、異質な空間のそれぞれに適応する。主人公のジョッキーは普段ナイトクラブに通うような暮らしをしておらず、そもそもこのナイトクラブは芦田伸介演じるごろつき(女は彼の情婦)が経営する場所である。競馬場での出会いも不自然だったが、正装して華麗なダンスをいわくつきのナイトクラブで披露するふたりの姿もそれに劣らず奇妙だ。シナリオがこの展開を準備しているとはいえ、いっさいの説明的なショットを入れず、ただカップルを成立させるために、ふたりを唯一の媒介として異質な空間をつないでしまうところには、先に見た清順に固有な編集技法を認めることができる。
本作のサブテーマは、主人公と兄との関係である。弟がやくざの情婦とつきあい始め、やくざの恐喝を受けていることを知った元マドロスの兄は弟を守ろうとする。すでに触れたように、夜の駅舎の場面には、裸足で女を追った弟を兄がホームからおぶって家に帰るという印象的な(端的に言ってへんな)ショットがある。ラスト近く、ナイトクラブで芦田にいたぶられた弟を救うために、兄は乱闘の末芦田を殺してしまうが、この場面でも兄は傷つけられた主人公をおんぶする。この兄弟の姿が唯一の媒介となって、駅舎(兄弟が暮らす家に近い場所にある)とクラブという異質な空間が結びついている。元マドロスの兄は、作中で明示されないあるできごとのために刑務所に入り、出所後はすっかり更生していた。芦田の経営するクラブのような場所とは無縁で、暴力沙汰ともすっぱり縁を切ったはずだったのだ。つまり弟をおぶってそこから出るためだけに、兄は完全に縁のない空間に足を踏み入れるわけである。ここにも、繰り返し指摘してきた通りの編集技法が見られる。兄が成人した弟をおんぶするという特異な図の出現は、シナリオにあるか否かより、監督が映像化したいかどうかにかかっている。これをふまえれば、今指摘した演出と編集は、監督の意図の下になされたと考えるのが自然だろう。
「暗黒街の美女」(58年)という初期作品から、「殺しの烙印」(67年)などの代表作に共通する清順演出の固有性を取り出し、それが監督第一作にすでに認められることを示した。論証は成功しているだろうか? 少なくとも私は、自分勝手な理屈を作品に押しつけることはしていない。最後にもうひとつ、「港の乾杯」のきわめて印象的なラストシーンを振り返っておこう。連行された兄を見舞ったのであろう、カップルが警察署の玄関を出る場面である。何のきっかけがあるでもなく、ふたりは視線を同じ方向に向ける。次のショットは、港に停泊する大型船の全景である(ラスト近く、元マドロスの兄は再び船員として働けるようになったという知らせを受け取るが、この時にも同じ大型船のショットが映し出される)。この編集は文句なくすごい。なぜなら警察署の玄関にいるふたりが、この船をじっさいに見ているとは到底思えないからである。これだけ書けば、結論のダメ押しは不要であろう。鈴木清順という監督は何を考えているのかわからない。