鈴木清順作品における遍歴という構造について

「清順の剃刀、あるいは鈴木清順の編集技法について」の続きである。できれば先のエッセーも読んでいただきたいが、あちらは初期作品に重点を置いた記述で長いため、興味を引かれないかたも多いと思う。そこで今回は極力要点だけ簡潔に書くことに努め、神保町シアターで取り上げられた20作に限らず、よく知られた清順作品をも引きながら論じたい。

先に見た清順映画の編集技法の要点を繰り返すことをお許し願いたい。今回の論点もやはりそこから導かれるからである。日活時代の作品だけでなく、いわゆる浪漫三部作とそれに続く後期作品に一貫して認められる編集技法のひとつは、大胆に途中のできごとと時間をカットし、何らかの媒介物によって異質な空間をつないでいくことである。

“媒介物”のリスト。1 主人公自身。2 主人公が追い求め、もしくはそこから逃げようとする対象。たとえば恋人、宿敵、真犯人などの人間に限らず、金銭、宝石、麻薬、銃といった物、さらには――「殺しの烙印」「ツィゴイネルワイゼン」「オペレッタ狸御殿」の場合のように――明確なかたちを取らない謎めいた存在や観念的存在をあげることができる。「ツィゴイネルワイゼン」は後で述べる遍歴の主題を明確にした作品であり、異質な空間をつなぐ要素が多種多様に交替する。そのひとつであり、後段ようやく明確になる「骨」という媒介物は、前段では原田芳雄のマントと大谷直子の肉によって覆われ、不可視の状態にある。3 人間や物が作り出している特徴的な形姿。前エントリーでは「港の乾杯」から弟を背負う兄のイメージを引いた。「殺しの烙印」の、雨に濡れたり火あぶりにされたりするオブジェとしての真理アンヌ、「ツィゴイネルワイゼン」の、振り返って鏡をのぞき見る大楠道代、「狸御殿」の、籠に閉じ込められた雨千代や極楽蛙の姿など、清順作品は様式的な形姿に満ちみちている。4 人名や音楽のフレーズなどの断片化されたモチーフ。清順作品の魅力のもうひとつの源である。ここでは「河内カルメン」の露子が初恋の人を呼ぶ「ぼん」という名の反復をあげておく。

清順作品には、ある場面と他の場面をつなぐ経過の説明がほとんどない(たとえば列車で移動する人物の会話や窓外の風景などを細かくつなぐ編集は映画の常套手段であるが、彼はそういう撮り方をむしろ避ける)。「素ッ裸の年令」「すべてが狂ってる」「くたばれ悪党ども 探偵事務所23」などのように、街路を行くバイクや車の描写が鮮烈な作品の場合、まさにそのロケーション撮影が固有の価値を持つのであり、それらはけっしてある場所から他の場所への移動を説明するショットではない。観客は高速で駆ける物体とそれに乗る人間を追う映像と音声の力に捉えられてしまうので、そういうショットは説明手段として機能しない。場面と場面を媒介するのはあくまで前のパラグラフで見た通りの諸々のイメージであり、それを強く印象づけるショットなのである。説明抜きに進むカットに挑発されながら、観客が異なる場面を関連づけていくことができる理由は、媒介となる事物を捉えるショットが見る者の記憶に鮮烈に残ることにある。清順映画の人物のユーモラスで様式的なアクションと、凝った美術(木村威夫との強力なタッグによって清順様式はその極点に達する)は、この意味で固有の編集技法と切っても切れない関係にある。

このエントリーでは、今述べた意味での媒介物に注目し、異質な空間をあるイメージが巡っていく移動のさま(遍歴と呼ぶことにする)について論じたい。結論を先取りすると、イメージの遍歴に注意することは、彼の作品における音楽の役割を画定するために役立つ。

「暗黒街の美女」の、3個の大粒ダイアモンドの遍歴はこうだった。あるヤマを踏んだ主人公は組織のボスの名を出さないで服役する代わりに、獲物のダイアを自分しか知らない場所(下水道の壁穴)に隠しておいた。物語は出所後の彼がマンホールを降りてそれを取り戻すところから始まる。主人公にはいっしょにヤマを踏んだ友がいて、事件で脚が不自由になった彼にダイアを譲ろうと考えている(組織のじゃまが入らないように、出所するまではあえて獲物を下水道の壁穴に隠しておいたわけだ)。ふたりは再会し、ダイアはめでたく友の手に渡ったものの、それをさばくためやむなく組織の力を借りる。しかし組織のボスの計略で主人公の友は殺されてしまう。撃たれてビルの屋上から転落する間際、彼はダイアを3粒とも飲み下す。当然のように死体の争奪戦が起こるわけであるが、ここに先のエントリーなどでも触れたマネキン人形製作所のデザイナーが参入する。この男は安置所で死体の腹を切り裂き、ダイアを横取りする。それを知った主人公はマネキン製作所に押しかけ、ダイアを奪還しようと図るが、組織の連中もそこへやってくる。ダイアは粘土のマネキンの乳房に押し込まれ、マネキンは乱闘のさなか出荷されてしまう。行き先を突き止めた主人公はマネキンを再び下水道に持ち込み、人形を解体してダイアを取り返す。しかしその行動も組織の知るところとなり、ボスのアジトに監禁された主人公らは、そこから脱出するためにダイアを炎の中に捨て去る。

「暗黒街の美女」は、既存の枠にしたがって分類すればアクション作品である。しかしながら(他の清順作品同様)アクションそのものに見どころがあるわけではなく、むしろダイアモンドと主人公の行方を追うことに観客の関心は向かうだろう(当時の多くの観客はその筋書きに惹かれたかもしれないが、今見ておもしろいのはそういう物語の進行を支えるカメラワークと編集の方法だ)。注意すべきは、ダイアが辿っていくそれぞれ奇妙な場所である。下水道の壁穴、人の胃袋、マネキンの乳房、そして最後は地下室の燃える石炭という遍歴を振り返ると、この映画がアクション作品なら、ダイアモンドが受ける試練こそが主題なのではないかと言いたくなる。宝石に振り回されるやくざたちのドタバタ劇はプロットとして珍しくない。しかしこの作品を特徴づけるものは人間の側のドタバタではなく、病院、遺体安置所、マネキン人形製作所、街路、ブティック、下水道、石炭が燃える地下のボイラー室といった、それぞれ特異な空間を予想外の展開でつないでいく編集の手際の方である。

清順作品において異質な空間をつなぐ媒介は、説明的もしくは補助的なショットではなく、強く印象づけられ、反復するイメージであるから、作品に固有の特徴的なイメージを追いかけることは、その遍歴に立ち会うことを意味する。これが清順作品の多くに認められる遍歴の構造である。「暗黒街の美女」の場合、シナリオの段階でダイアモンドはヒッチコック的なマクガフィンに過ぎなかったであろう。言い換えれば監督をはじめスタッフが、この映画の主題をダイアモンドの遍歴に見出すことはなかったと推測できる。しかし作品の主題が、結婚式当日に妻を殺した犯人の捜索(「暗黒の旅券」)、故郷と生家のしがらみを嫌って都会に出た若い女の、男と生活の探求(「河内カルメン」)、殺し屋である自分を殺すはずの自分より上のランクの殺し屋を見つけ出して殺そうとする試み(「殺しの烙印」)などである場合はどうだろうか。主人公の遍歴そのものが主題化されるのは当然である。今列挙した作品の場合、異質な空間を媒介するものは何より主人公を特徴づけるイメージであり、また主人公が追い求めている相手の手がかりとなるイメージである。こうして遍歴の潜在的な構造(それは繰り返し見てきた通り、清順作品に固有な編集技法と相補的である)は、遍歴という主題になる。浪漫三部作以降の後期作品のすべてが、遍歴の主題の変奏であると言っていいことは、初期作品において創造された遍歴の潜在的構造が少しずつ清順映画のテーマに格上げされていったという仮説の根拠になるかもしれない。しかしこの論点について今は深入りしない。

以上が本稿のポイントである。次にこの遍歴の構造あるいは主題が、清順映画のもうひとつの(私にとってはそれこそが最高の)魅力と必然的に結びつくことを指摘しておきたい。音楽の力である。清順作品の音楽性については、稿を改めて論じなければならない。彼の大胆なカットがもたらすリズムそのものが音楽的なので、「狸御殿」のようにミュージカル仕立てで表現される音楽性以前に、音のないそれを指摘できる。ここから出発して清順作品の音楽的要素を分類し、それらの関係を考える必要がある。今はそういった詳細に立ち入ることはできないから、あくまで遍歴という本稿の主題との結びつきに限定して、音楽という要素を論じよう。

異質な空間を媒介する要素には、遍歴する主人公や彼(女)が探し求める対象の手がかりがあることを指摘した。ところで編集を支える媒介は映像に留まらない。登場人物の台詞回し、繰り返されるキーパーソンの名、登場人物が口ずさむ歌の一節を含む音楽のフレーズなども媒介的要素である。「暗黒の旅券」では、トロンボーン奏者の主人公が殺された歌手である妻とともに作品冒頭で演奏する曲が、ミュージックホールを修羅場に変え、真犯人のいる別荘へ主人公を導く契機となるだけでなく、終幕ではスクリーン上に亡き妻の姿を召還する。「くたばれ悪党ども 探偵事務所23」では、宍戸錠と星ナオミのデュエットとタップダンスが、宍戸と悪党組織の関係に微妙なひびを入れると同時にそれを補修し、この後宍戸が探偵としての素性を隠して組織と関わる上で、星ナオミが重要な役割を担うきっかけを作る。

しかし、今あげたふたつは、音楽が編集の媒介的要素になる例に過ぎず、遍歴とはほとんど無関係である。「暗黒街の美女」のダイアモンドや、「殺しの烙印」の主人公のように、潜在的あるいは明示的に、異質な場面をつないでそれらの間を移動していくという意味での遍歴と音楽が結びつくことはあるのだろうか。テーマ音楽(いわゆる劇伴)の反復的使用は清順作品には稀である。しかし、「河内カルメン」(フラメンコギターのテーマ、露子がバーカウンターの上で歌うハバネラ、そして不動院が登場する際にライトモチーフのように反復される法螺貝の響き)、「殺しの烙印」、「東京流れ者」、「ツィゴイネルワイゼン」などでは、音楽が主人公の遍歴に随伴したり、それを予告したりする。とりわけ「河内カルメン」での音楽の使用は質が高く、目まぐるしく交替するそれぞれ異質な空間(この作品ではほとんどの空間が富裕な男または富裕な同性愛の女に占有されている)を、露子とともに、また時には露子を離れて遍歴する。「河内カルメン」が日活時代のアクション作品とは異なる魅力を持つ理由のひとつは、この音楽の遍歴にある。

一般に映画において、音楽はカメラの視線同様どんな場面にも介入できる。だから下手な作品ではカメラワークだけでなく音楽がじゃまをする。清順作品での音楽の使用はつねに控え目であるが、それはおそらくこの監督が音楽の作用をよく知っているためだろう。個人的なことを言えば、私は「オペレッタ 狸御殿」が大好きである。そしてこの作品の試みの原点と言える作品が「河内カルメン」だったのではないかと考えている。ところで、これら音楽的要素が明瞭な作品に限らず、清順映画は当初から音楽的遍歴の萌芽を宿していたことを忘れてはならない。監督第一作「港の乾杯 勝利をわが手に」の流しのギター(青木光一)と居酒屋の客たちの踊り、「すべてが狂ってる」のジュークボックスの音楽と坂本九のライブを思い出そう。清順の映画が歌い、踊り始めると、その時はもう最強である。

 

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