遍歴の伴侶と離別――清順映画におけるイメージの旅

「鈴木清順作品における遍歴という構造について」の続きである。ここで“遍歴”は、清順作品に固有の大胆なカットをまたいで、異質な空間を移動していくイメージの旅を意味する。そうしたイメージの代表は主人公および彼(女)が探し求める対象であるけれども、作品の中の異質な空間を遍歴するものはそれらに尽きない。旅の途上で、別の遍歴のさなかにいた者と偶然道連れになる事情に似て、清順作品の遍歴するイメージはしばしば伴侶を持っている。

「暗黒街の美女」の遍歴するイメージが、主人公を差し置いてまずダイアモンドであることは繰り返し指摘した通りである。それだけでなく本作におけるダイアモンドは、ある時はマネキン人形の鉱物的な魂に、またある時は死体の腐敗しない肝となる(前エントリー参照)。ダイアモンドの遍歴には、主人公と彼が護ろうとする女の他にも、あたかも股旅物の映画におけるかのように雑多な道連れがある(この作品でのマネキン人形の形姿は、それ自体媒介的なイメージであり、たとえば白木マリが人形製作所の1階から2階に上がるエレベータ上でマネキンのポーズをとる時、マネキンのイメージが白木を差し置いて短い旅の主役の座に立とうとする。ダイアモンドが乳房に埋め込まれてからしばらくの間は、じっさいにその人形が映像上の主役になる)。

「ツィゴイネルワイゼン」の遍歴の場合、一見原田芳雄のそれがこの作品の主軸であるように思われるものの、彼が自分の遍歴の道連れにする瓜ふたつの女(本当にふたりの女がいるのかどうかさえ明らかではない)の滞留(切り通しの向こうの家とこちら側の往復)、あるいは「俺の骨をやるよ」という原田の遺言とサラサーテの盤に取り憑かれた藤田敏八の彷徨を想起すれば明らかな通り、この作品の異質な空間をまたいで遍歴するイメージ群には複数の系統があり、全体を統率する導き手がいない。旅人にとって道連れが主でも客でもないように(当初の主客の関係は、事情によって簡単に逆転する)、清順作品の旅にはじつは主人公はいない。いくつかのイメージが主人と伴侶の役割を交替しつつ遍歴するのが清順流なのである。

前回、清順映画の旅人のひとりに音楽をあげ、音楽が時には主人公に付き添い、時には主人公を離れて作中を旅すると述べた。この指摘において「主人公」という語は習慣に従ったまでで、「河内カルメン」「ツィゴイネルワイゼン」「オペレッタ狸御殿」などの作品では、音楽は主な俳優や事物と同じくらい重要な遍歴の主体である。清順作品に複数の遍歴の系列があること、そこでは人、事物、形姿、ことば、音楽などのイメージがたえず主客の座を交替すること、これが本稿の主題である。

この点を指摘しておかないと、異質な空間を媒介する遍歴の主体として前回リストアップしたいずれかが、唯一作中を遍歴するという誤解を招くかもしれない。「ツィゴイネルワイゼン」がたんに原田芳雄の遍歴を描いているわけではないことはだれの目にも明らかであろう。一連の考察において私が遍歴と呼んでいるのは、たんに異質の空間をつないでいくイメージの移動という現象に過ぎず、ひとつの作品に遍歴するイメージが複数あることを排除しない。そこで今回は、遍歴する複数のイメージの共存と離別に照準を合わせて清順作品を見てみよう。

「河内カルメン」(66年)と「悪太郎」(63年)といういずれ劣らぬ中期の傑作を比べながら、イメージの遍歴とその伴侶の関係を振り返る。前者は故郷のしがらみを断ち切って都会に新天地を求めようとする若い女、後者は不良のレッテルを貼られて都会を追われ、田舎での蟄居を余儀なくされる若い男を“主人公”とする。ちょっと脱線すると、いずれの作品においても木村威夫の美術、峰重義のカメラが素晴らしく、シネマスコープの画面を活かした水平方向のみごとな構図と移動撮影は言わずもがな、あえてシネスコ画面に逆らって奥行を出す絵にも挑戦している(「河内カルメン」のハバネラの場面でバーカウンターを縦に撮るところや、レズビアンの先生宅の、階段を中央に据えたセット、「悪太郎」のふたりが京都の寺院で行きつ戻りつ自分たちの境遇を語り合うあの泣ける場面等々)。とはいえ両者のテイストはまったく異なり、「悪太郎」は意外にも松竹文芸調である(鈴木清順監督はまず松竹で修業した)。

「河内カルメン」の露子はナマ臭坊主の影を振り払うように次々に男を取り換えていくけれども、本当はまだ初恋の男ひとりしか愛したことはない。彼と再会し、はじめてのオーガスムを知るのもつかの間、あっけなく男は殺されてしまい、自分の宿縁のもとになったナマ臭坊主を始末した後、露子は東京に出て本物の男を探し始める。「悪太郎」の東吾は不良のレッテルを貼られはしても恵美子一筋であり、破天荒な行動とは裏腹に文学に熱を上げる男でもある。恵美子との将来を夢見て東京に出た後、彼女は田舎で病を得てあっけなく死んでしまう。東吾の真の遍歴を示唆して作品は終わる。この2作について遍歴の構造との関係で指摘したいことは次の諸点である。

1 いずれの作品でも、抱き合いキスを交わすカップルの姿が一見恋愛映画の定型に則って映像化されている。「河内カルメン」のカップルは映画のはじめに土手でキスする。ふたりは直後に間を裂かれて別々に旅することになるが、大阪で再会し、舞台をダンスホールに替えて冒頭の抱擁を再現する。「悪太郎」には川の流れを背景にしたアップのキスシーンがある。カップルはこの後何度も抱擁し合い、洪水や京都の場面で仲良く連れ添っている。どちらの作品でも、映像の連なりの中核に恋愛物の常道と言っていい男女のむつまじい形姿があり、特に最初の抱擁のショットは風景をバックに撮られ、その後の道連れのツーショットの原型となっている点に注目したい。恋愛映画のひな型を再確認するような、旅とその道連れの描き方が2作品には共通している。

2 したがって、主人公と同程度に彼(女)が愛する相手が重要な遍歴の媒体になっている。「河内カルメン」では露子の初恋の人は「ぼん」と呼ばれ、冒頭のバラの花を投げる場面、土手でのファーストキス、大阪市街を走るバス内の再会、最初の抱擁を再現するダンス、橋向こうのあばら家での生活のはじまり、ピンク映画の撮影(この時はじめて露子は本物のオーガスムを知る)、という本作の主要な場面のすべてがこの「ぼん」の名とそれに対応する人物によって導かれる。「悪太郎」でも、恵美子のイメージなしに新たな空間へ進む東吾の遍歴がないことは同様である。つまりどちらの作品でも男と女はイメージの遍歴に関して同等の価値を持っている。

3 にも関わらずその一方が不意に死んでしまう。清順作品で主要な人物があっけなく死んでしまう例は多い。しかしここで取り上げている2作は、すでに見たように一見典型的な恋愛物である。少し奇妙な話に聞こえるだろうが、ふたつの作品を心中物に置き換えたシチュエーションを想像してみよう。カップルのどちらもショットをつないでいくイメージとして重要であり、両者が一体になっている方が構成上の安定を得やすく、かつシナリオの都合で悲恋の設定を変えられないとすれば、ともに死んでしまう方が撮りやすくはないだろうか。あるいはいっそのことハッピーエンドで終わらせてはどうだろう。しかし、どちらの作品もそういう展開にはならず、同じくらい重要なイメージの片割れがまったく唐突に消えてしまうのである(一方が他方を看取る場面さえない)。ただし、遍歴の道連れが不意に消えるからといって、作中のイメージとしての価値に変わりはないことに注意してほしい。カップルの一方が死ぬというのはストーリー上のできごとであって、ショットと編集に注目して作品を見る時には、カップルの映像上の意味はそのまま存続する。

4 ではなぜわざわざ2作品は恋愛映画の定型を壊すのだろうか。今東光の原作とそれに沿う脚本が定型を嫌ったということはもちろんあろう。しかしそれ以上に、「河内カルメン」と「悪太郎」の終幕の展開はいかにも清順映画らしいとは感じられないだろうか? そう感じさせる理由を遍歴の構造からあえて述べると、こういう展開にすると遍歴が終わらないから、というのが私の解釈である。恋愛映画がハッピーエンドに終わるということは、映像の連なりの点から言うと、カップルのイメージが異質な空間を遍歴することをやめ、同質的空間における反復傾向を見せ始めるということである。また心中物の場合、死後の遍歴や再生が描かれない限り、悲恋の行き着くところは遍歴の停止だ(まさしく道行きである)。「河内カルメン」も「悪太郎」もこれらの定型を踏まず、ラストシーンでは遍歴の新たな始まりを予告して“とりあえず”映像を閉じている。しかし、観客はカップルの片割れが伴侶を失ってからも映画は続くという手ごたえを感じるはずである。このことは、今までの記述に即して言い換えると、清順作品の作り出すイメージが強い力を持ち、だからこそ大胆不敵なカットを超えて異質な空間を結びつけていく(つまり遍歴する)という特性の延長上にある。作中のイメージは映画の最終カットを飛び越えてさらに遍歴を続けるのである。

監督第1作「港の乾杯 勝利をわが手に」でも、兄が弟を背負うあの形姿はラストでいったん分解され、ふたりは異なる遍歴を開始する。弟と恋人が警察署の階段で同じ方向を見つめ、その後兄が乗るはずだった大型船の全景映像に切り替わるあの編集を想起しよう。兄は弟の犠牲となって刑務所に行くのだが、この映画のラストショットはそんな擬似的な遍歴の行程には無頓着に、その先の航海を明示するのである。“清順らしさ”にはこのようにショットと編集の特性に由来する理由がある。

 

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