帝王切開について

「ツィゴイネルワイゼン」の次のシーンは、一挿話に過ぎないのに記憶に残る。藤田敏八が妻から電話で原田芳雄の死を報らされた後に、早く帰ってほしいという懇願を無視して外科医の玉川伊佐男とバーで待ち合わせるところである。

玉川は店に入ってくるやはらりとコート(大正時代風に外套と呼ぶべきだろう)を脱ぎ捨て、なぜか肩から両腕が丸見えの手術用白衣姿になると、今でも稀に病院で見かける消毒用の器(白い洗面器のようなもの)に女給がなみなみとボトル一本分注いだジンだかウォッカだかで手を洗い、女給にその臭いを確認させてから藤田と差し向いでウイスキーを飲み始める。解剖を終えてきたところで、さっきまで「頭から小腸の先まで」たんねんに切開していたのだと彼がわざわざ報告するのを聞いた後、ナッツをつまみながらうまくもなさそうにビールを飲んでいた藤田は用件を切り出す――遺体がひとつあるのだが(もちろん原田のことだ)、皮と肉をきれいに削ぎ取って骨だけを残すことはできないものか。この場面は、「不可能だね。たとえ可能だとしても、医学的に何の価値もない」という玉川の無愛想な返答によって終り、その後藤田が原田宅を訪れ、骨壷を開けようとして断念する数日先の場面へとつながる。本作での玉川の出番はこれだけである。

「ツィゴイネルワイゼン」の原田芳雄は、弟の葬式から帰ったばかりの芸者小稲(大谷直子)と出会い、桜色にうっすらと光る彼女の弟の遺骨の件を聞かされて以来、すっかり骨のとりことなってしまう。小稲を抱く時にはいつも骨をしゃぶるかのようで、気味悪がる彼女に「人間の体でいちばん美しいのは骨だ」とまで言う。あげく親友の藤田とは、先に死んだほうが生き残ったほうに骨をやるという約束を強引に交わす。藤田が玉川を訪ね、馬鹿げたことを訊いて叱られるのは原田とのこの約束のせいなのである。

ここでわたしは「ツィゴイネルワイゼン」の骨の話ではなく、鈴木清順作品に時々顔をのぞかせる切開のモチーフの話をしようとしている。「ツィゴイネルワイゼン」の玉川伊佐男のエピソードは、骨そのものよりもむしろ骨を取り出すことの可能性をめぐるものである。玉川が解剖を終えてきたばかりでまだ死体の臭気を漂わせていること、藤田が原田との約束を律儀に守りかねない気分でいることが、冒頭引用した場面に妙な感触を与えている。本作にはこのシーンだけでなく、いくつかのさりげない切開のモチーフが散りばめられている。樹木希林の捌くうなぎ(割烹旅館で自分たちが食べようとするうなぎを手で掴んで選ぶのは原田自身である)、小稲の唇から生き胆を吸い出す原田のイメージ、砂が入った原田の眼球を舐める大楠道代のイメージ、水蜜桃の皮を舐めながら「人間の皮を剥いても同じようにぬるぬるしているそうですわ」と藤田に囁く大楠等々である。おそらく骨にも切開にも関心がない藤田が、僕の骨をやるよという原田の遺言のせいで、肉を切り開いて骨を取り出す可能性を考える羽目になることには同情を禁じ得ないけれども、切開のモチーフが作り出すイメージの遍歴に巻き込まれる限りにおいて、藤田がこのような経験を経なければならないことには理由がある。

ところで、清順映画に登場する玉川伊佐男は常に魅力的なキャラクターである。清順監督が戦争と人間の生を非常にシリアスに描いていると言っていい「春婦傳」(65年)の玉川は、ひいきの娼婦野川由美子を一度ならず本気で軍刀にかけようとする。敵兵のみならず部下も娼婦も彼にとっては人間ではなくたんなる道具であり、土塊である。「ツィゴイネルワイゼン」の解剖医は「春婦傳」の軍刀鬼が変身した姿かもしれない。その玉川は、「肉体の門」(64年)では刺青の彫り師に扮している。「肉体の門」は「春婦傳」のふたつ前の作品で、敗戦直後の闇市で逞しく生きる娼婦たちと、彼女らの渇仰の対象である野生の男を描いている。刺青のモチーフは「峠を渡る若い風」(61年)や「関東無宿」(63年)などでもおなじみだが、玉川伊佐男の仲介を経ることで、切開といういっそう凶暴なモチーフに近づきつつあるというのが、わたしの強引な理解だ。もちろん「肉体の門」の玉川は重要な役ではあっても端役(初老のおとなしい帰還兵)に過ぎない。しかしこの作品で赤い服の娼婦が玉川に刺青を入れてもらう場面に続くのは、宍戸錠が米兵の腿を刺したナイフを投げ捨てるショットなのである。「春婦傳」で玉川が軍刀鬼に転身する契機が、すでに「肉体の門」に見出せるというのは穿ち過ぎではないだろう。ついでにもうひとつ重要な切開のモチーフを指摘するなら、名高い牛捌きの場面がある。斧で牛の脳髄を叩き割るところから帝王切開のように臓モツを取り出すところまで実写である。解体される牛におとらず血まみれの宍戸、奮闘する彼の肉体を興奮した眼で見つめる野川、「手間を取らせやがって」という宍戸の一声を合図に牛鍋の支度を始める娼婦たちの姿は、「春婦傳」に直結するイメージ群である。玉川伊佐男を通じてこれらが「ツィゴイネルワイゼン」の切開のモチーフに連なっているのだ。

「陽炎座」には、「ツィゴイネルワイゼン」一作では描き尽くすことができなかったいくつものモチーフが蠢いており、切開もそのひとつである。ラストに登場する凄惨な殺戮を描いた絵画のひとつに、手首を切断され、今まさに腹を裂かれつつある女の苦悶を描いたものがある。原田芳雄が登場する人形の裏返しのエピソードとともに、肉を切り開いて内部を覗き見るという清順映画のモチーフが明示的に主題化されている。「ツィゴイネルワイゼン」の藤田敏八は、自身の監督作品「エロスは甘き香り」において牛ではなく豚を切開しているけれども、「ツィゴイネルワイゼン」の作中人物としては宍戸錠のように奮闘することも、「手間を取らせやがって」というキメ台詞を吐くこともできなかった。その鬱憤を晴らすかのような爽快さが、「陽炎座」ラストの残酷画に現れている。

付記 清順映画における切開のモチーフの端緒を「暗黒街の美女」(58年)にまで遡ることができることについては再三書いたので、このエッセーでは省略した。下の「清順」タグ経由で、「神保町シアター/特集「祝卒寿 鈴木清順」」、「清順の剃刀、あるいは鈴木清順の編集技法について」、「鈴木清順における遍歴という構造について」などを参照していただければ詳細を読むことができます。

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