マイケル・チミノ『天国の門』

直前のエントリー(「ディレクターズカットという謎」)が歯にものを挟んだような言い方で終わっているので気分が悪い。わたしの場合、思ったことをその場で言った時より、言わないで済ました時に後悔することが多いので、『天国の門』についての感想をさっさと書いてしまうことにする。

この作品の魅力は、長尺なのに時間の経過を描かず、徹頭徹尾運動を描いているところにある。卒業式の場面の最後にジョン・ハートが「終わった」と言う時点でこの作品の時間は停止している。ラストの船室の場面でも、相変わらずクリストファーソンの傍らには学生時代の自分と彼女の写真が置かれている。

その一方で、「美しく青きドナウ」にリードされる卒業パーティーのダンスシーン(このショットが芝生の外縁を周回する馬車から始まることに注意しよう――馬車は本作の重要なモチーフである)で提示される二重の円運動(ひとつは踊る学生たち全員の大きく輪を描くワルツ、もうひとつはその輪の中で周囲とは異なった動きをするクリストファーソンとその彼女の旋回)が、Heaven’s Gate(入り口の看板にはMoral and Exhilarationという文字が見える)での移民たちのダンス(ローラースケート用のシューズを履き、少年が演奏するフィドルに合わせて踊る)、および民兵と移民の決戦シーンとで再現される(決戦シーンでは、円陣を敷く民兵の周囲をまずクリストファーソンが大きく旋回して移民たちをリードし、中央の円陣とクリストファーソンが描く外縁との間で、移民たちそれぞれのより小さな円運動、すなわち死に至るダンスが描かれる)。撮影技術に関して斬新さがほとんどない本作において、群集による運動のダイナミックな描写が様式的に統一されている点は大きな魅力である。

しかしながらそうした運動の描写の中に、時として様式の破綻をもたらすショットが入り込むこともある。具体的にはネイト(クリストファー・ウォーケン)の死のシークエンスで、馬車を操って登場し、続いて銃撃によって馬車から離れた馬に乗り換えて駆けるエラ(イザベル・ユペール)のショット。ユペールはこの場面でウォーケンの許にたどり着けず、彼と民兵の銃撃戦が続く間に結局ひとり町に向かうことになる。この場面での彼女の登場は物語を繋ぐ役割を果たすのみであり、彼女の勇姿を描いたショットも前後のそれらから独立している。つまり、先に指摘した本作の主調をなす円運動の一貫性からはまったく浮き上がった運動の描写になっている。

本作のもうひとつの魅力は三角関係のモチーフのきめ細かな表現にある。クリストファーソン-ユペール-ウォーケンの関係は、心理描写よりもやはり具体的な運動によって表現されている。舞台は19世紀末ワイオミングの辺境で、ユペールの住む娼館とウォーケンの住居は草原の中の一軒家であって、彼らが自分たちの将来を話し合うためにはいちいちこれらの住居の間を馬か馬車で行き来しなくてはならない。すなわち三角関係は地理的に視覚化され、たとえばユペール-ウォーケンの関係が破綻するシークエンスでは、まずふたりはフィドル弾きの少年を伴って馬車で娼館からウォーケンの住居に移動し、ひまを見ては読み書きを勉強しているウォーケン(『緋文字』の著者の名を書き写すショットから遺書をしたためるそれに至る描写の一貫した優美さは特筆すべきであろう)の創意によって新聞紙(ここにもウォーケンをめぐる文字のモチーフがはっきり顔を出している)を壁紙にしつらえて模様替えした彼の住居でのユペールの涙の場面となり、そしてふたりの別れが決定的になる、本作でもっとも美しいショットが来る(フィドル弾きの少年をウォーケンの代わりに助手席に乗せて去っていく馬車のショットは高貴である)。こうした美しさが映像の魅力によるのみならず、三角関係の地理的な視覚化(互いの関係を更新するためには離れた住居を移動する必要があるということ)に支えられていることが特に重要である。

同じことはユペール-クリストファーソンの関係についても言える。ふたりの気持ちが伝わらないもどかしさは、対話のシーン以上にふたりが離ればなれになる距離によって鮮明に描かれる。先に例示したウォーケンとの別れの場面で、ユペールはクリストファーソンに会いに行かなければならないと言う(それがフィドル弾きの少年を伴って馬車を駆るあのショットの引き金になっている)。クリストファーソンと自分の間にある距離をこの時ユペールはまだ越え得るものと考えているのである。ところが、クリストファーソンはユペールとは別の考え(ワイオミングをふたりで脱出すること)を抱いていて、彼女とウォーケンの仲についても誤解している。自分の説得に応じないユペールを置いて娼館を去っていくクリストファーソンのショットは、ふたりの間に横たわる距離を娼館から町への移動によって形象化するものである。

以上のように、本作を見る3時間36分は、いくつかの特徴的な運動を習得していく楽しみに満ちている。そのいっぽうで、物語を流れる時間は字幕で伝えられるのみであり、少なくともわたしは本作から時を感じ取ることはなかった。けっしてそれを『天国の門』の欠点だというつもりはない。むしろこんな長尺でそれができることのほうが稀有である。

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