鈴木清順の音楽的転回(2)

『浮草の宿』の音楽は、ある時はオン(ショットの中)からオフ(ショットの外)へ、またある時はオフからオンへとさまよい出る。本作の春日八郎と彼の歌は、監督自身が望んで採用したわけではないにせよ、「歌謡映画」の不自然な設定を清順とスタッフがおもしろがったであろうことは、作品の出来上がりを見て容易に推測できる。この企画を押しつけられた清順は、会社の無理難題を自分流のやり方で解決してこそ映画監督であると考え、あえて音楽と映像を全面対決させる道を選んだのではないだろうか。またその経験を通して、音楽をモンタージュの重要な素材として扱う、後年の様式を生み出すきっかけを掴んだのではないだろうか。

『浮草の宿』におけるオンからオフへ、またオフからオンへの音楽の移行についてふりかえっておこう。

1. オンからオフへの移行の代表的な事例はラストのクレーンショットである(このシーンの詳細については「歌謡映画について――清順『浮草の宿』」で述べた)。ここで春日の歌は、最初はショットの内部で妹が聞くものとしての意味を持っているが、クレーンの移動とエンドマークによって、最後に歌われる作品の主題歌というもうひとつの意味を得る。つまりショット内からショット外への音楽の移動が生じている。

2. オフからオンへの代表的な事例は、横浜のホテルで安部徹と春日八郎が駆け引きをする場面に見られる。このシークエンスのはじまりは、二谷英明と山岡久乃をつけてきた安部が、二谷を殺害しようとする緊迫したショットであった。ところがそこにまったく場違いな春日の歌が流れ始め、ホテルの2階から街路を見下ろすショット(安部の主観ショットというより、だれのものでもないそれ)によって、観客はそこに流しの歌手としての春日が存在していることを知る。しかしこの時点で春日が麻薬取締官であることは伏せられているため、なぜ安部が春日を避けるのか、観客にはわからない。それゆえ春日の歌は、当初観客には唐突なオフの主題歌として聞こえ、じっさいに画面に春日が登場して安部と駆け引きを始めてからは、オンの歌声(流しの歌)として聞こえるのである。

会社が強いた苦しい設定のなかで音楽と映像をどのように対決させるかを工夫した結果、このような成果が得られたことは、スタッフがどの程度それを意識していたかを別にして、じつにめざましい。いま確認したふたつの音楽の活用法(それは当然映像のモンタージュとかかわり合いながらなされる)は、後年の作品で意識的に採用されることになる。

音楽と映像のとても愉快で重要なコラボレーションが実現する63年の『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』を見てみよう(63年は『悪太郎』と『野獣の青春』によって清順様式が確立された記念すべき年である)。伊部晴美の音楽がすばらしい(すべてジャズバンドによる60年代ポップス風楽曲で、ツイストのリズムによるテーマ、そのバラード編曲、アップビートのゴーゴー、そして星ナオミと宍戸錠がデュエットしながら踊るチャールストン「63年のダンディ」など)。アヴァン・タイトルの本作において、冒頭の日活のロゴに乗って最初に登場するのはツイスト調のテーマである(タイトルバックとエンドマークで再現される)。これらの音楽は、陳腐なアクション作品にありがちな映像とのあざとい同調なしに、作品の背景を悠々と(勝手に)流れる。たとえばアヴァン・タイトルの武器強奪や、警察署前での暴力団員たちの乱闘などの場面にかぶるのは遅いテンポのナンバーであり、映像とは異なる時を刻む。しかしこれらは波乱の前兆である。冒頭とタイトルバックのテーマ演奏が与える印象は強烈で、いつか作中で音楽が映像を乗っ取るときが来ることを予感させる。注意すべきことは、ジャズバンドの楽曲の統一されたオフの音楽の流れが、作品前半ではごくふつうのテーマ音楽の使用に思えることである。しかしこれこそが『くたばれ悪党ども』にしかけられた伏線なのである。

この映画を一度でも見た人は、この先の記述を容易に予測できるだろう。ストーリーのヤマ場とは別に、本作には音楽とダンスのクライマックスがある。星ナオミと宍戸錠がクラブ・エスカイヤで歌い踊るチャールストン「63年のダンディ」のシーンである。

星と宍戸が最初に登場するタイトル直後の同じクラブの場面(カードゲームのテーブルに向かうふたりを背後から見下ろすショット)で、勝負に負けた宍戸は星から重ねての“出資”をせびり、頂戴したその資金とともに彼は星を置き去りにしてしまう。さてチャールストンの場面では、宍戸は探偵という身分を隠して武器密売グループの連中と飲んでおり、星は偶然ダンサーとしてクラブに出演中である(例によってまったくつじつまの合わない設定だ)。赤い衣装の星がコミカルなしぐさで舞台に登場する(個人的にここは大好きなショット)のを見た宍戸は、元カノの星が自分の素性をばらすのではないかと警戒する。星が歌い踊るチャールストンのナンバーは、演奏当初は本作に流れる他の曲と同じグループに属する音楽が、ショット内に降臨しただけのように思える(なぜなら星はクラブのジャズ・バンドの伴奏で歌っているから)が、その歌詞の内容は、「だれかとよく似た男が来てる」、「わたしのだいじな虎の子をネコババした男だ」と、そのまま冒頭の場面のできごとを非難する内容なのである。

作中の人物の台詞が歌に化ける趣向はハリウッド30年代のミュージカル以降、音楽を主役にする映画の常套手段である。だが『くたばれ悪党ども』の場合、この決定的なシーンに至るまで、映像はアクションと策謀と色恋に徹し、音楽はそれらとは別のテンポを刻みながら背景に退いているのである。しかも本作の場合、チャールストン「63年のダンディ」は最初から挿入歌として作曲されているのだから、『浮草の宿』の音楽とは異なり、映画のなかでどのように使用されるかは想定済みである。つまりこの場面で星と宍戸の駆け引きが歌とダンスで描かれることを、監督はあらかじめ意図していたということだ。

『くたばれ悪党ども』は、たんに宍戸錠主演だからというだけでなく、笹森礼子と宍戸の絡みのショットの編集のぶっ飛びぶりや、宍戸と川地民夫との関係の描写などが『殺しの烙印』を想起させるし、川地の愛人の猫のようなしぐさと台詞は『ツィゴイネルワイゼン』の大楠道代を思わせる。63年の他の傑作に比べて世評が高いとは言えないけれども、見るべき要素がたくさんある作品である。チャールストンのシーンは、歌と踊りが台詞を兼ねている点で『オペレッタ 狸御殿』の先駆である。しかし、観客がまったく予想できない場面で星ナオミが唐突に登場し、歌とダンスで宍戸錠をおびき寄せ、音楽がふたりのデュエットとダンスの映像を導くこの演出と編集は、清順の全作品のなかでも際立って特異ではないだろうか。本作が清順の音楽的転回の端緒だとわたしが主張する根拠もここにある(つづく)。

付記 「野獣の青春」と「探偵事務所23 くたばれ悪党ども」のオリジナル・サウンドトラックのCDが12月に発売される。http://news.diwproducts.com/2013/10/13w.html

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